『今を生きるための現代詩』著:渡邊十絲子
こぼれる金色の光と現代詩

 こどものころは、この感じかたが自分だけのもので人には通じないなんて思ってもみなかった。誰にとってもおなじように、詩は胸が苦しくなるような幸福のみなもとなのだと信じていた。おとなになるにつれそうではないのだとわかってきて、わたしは孤独になった。ひとりきりで金色の光を見たときにはあれほど幸せだった孤独が、はじめてさびしいものに思えた。

 登山家はなぜ山に登るのか。それは山が好きだからだろう。

 そしてかれらは、「そこに山があるから」という言いかたをゆるされている。

 わたしはなぜ詩を読むのか。それは詩が好きだからで、それよりほかに理由はないが、「そこに詩があるから」という言いかたはわたしにゆるされていない。そういう言いかたで納得してくれる人はいない。山は人間がいなくてもそこにあるものだが、詩は人間がいなければ生みだされないものだからかもしれない。

 難解で、読みなれた人以外を拒絶するような感じのする現代詩を「好き」と言う人はすくない。多くの人はそれを「むずかしくて、なんのことだかわからないから好きではない」と思っている。だからそれを「好き」と言う人に怪訝なまなざしを向ける。

 なぜ好きかを問われてわかりやすい返答ができるようなのはほんものの「好き」ではないと思うが、長い年月「なぜ」と問われつづけると、なにか自分なりのこたえを見つけなければならないような気がした。

 これは人生をかけて考えるべき難問なので、わたしはながらくこたえを先のばしにしてきた。いつかはあの金色の光や、その光とおなじ幸福をわたしにあたえた現代詩のことを書かねばならないと思っていたけれど、その機会を得ることはなかなかむずかしかった。何十年もかかってそのタイミングがとうとうおとずれたので、現代詩がわたしにあたえたものを、一冊の本として書きあらわしてみることにした。

 しかし、それは思ったとおり困難なことだった。もともとが、言語化できない感情的体験なのである。すんなり言語化できるぐらいなら、とっくのむかしに文章にしているし、詩として書いていたかもしれない。でもそれが不可能だったからこそ、いままでこの幸せは、誰にもその存在を知られないまっさらな雪原のように、わたしのなかに凍結保存されていたのである。

 言語化できないものの周囲を、言語によって旋回する。

 それは成算のない仕事だった。はじめからむりだと知っていることに挑みつづけるのは、やはり苦しいことだった。

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