7歳か8歳のころのことである。
小学校からの帰り道、たぶん時刻は午後3時ぐらいだったと思う。ひとりで、ひとけのない路地をあるいていた。その日は朝から雨が降ったりやんだりしていたけれど、下校までにはもうすっかりあがっていた。
重く垂れこめた雨雲はまだ黒くうるんで空を覆っていた。わたしは黒雲のきれいさに見とれて、しばし立ちどまった。そのとき、その雲のなかほどにさっと亀裂がはいり、そこからこぼれるように金色の強い光がさしてくるその瞬間を見た。
光は帯状に降りそそぎ、うすいカーテンのようにひだになって見えた。そしてゆるやかに波をうっていた。その光の強さで、あしもとの濡れたアスファルトがきらきらした。わたしだけがその一部始終を見ていた。雨上がりの空気の、生き物のようなにおいが、なにもかもを包んでいた。胸が苦しくなって、わたしはそのとき目にしていたなにもかもを、一瞬のうちに記憶に刻みこんだ。
暗さと明るさがいりまじった光が、見なれた通学路の景色を一変させていた。それまでに見たことのない神々しいかがやきを見せている水たまりに、通学用の黄色いゴム長靴をそっとひたしてみた。わたしは完全に幸福だった。金色の光がわたしの存在を、視線を、祝福していた。ひとりでいることはこのようにすばらしいことだと、そのときわたしは痛切に知った。
至福などということばをおぼえたのはずっとのちのことで、あの感覚はながらく名前のないものだった。でも、あのとき胸がいっぱいになり呼吸までが苦しかったあの感じは、雲間からこぼれる光の金色とともに、いつでも思い出すことができた。
それがなぜ苦しいほどの幸福だったのか、いまも説明はできない。でも、あの体験によってわたしは、自分という肉体が「ある」こと、それは世界に包まれて「ある」ことを発見し、ふかく納得したのだ。それは動かしがたい真理であると同時にとても不思議なことだった。
はじめて現代詩に接したとき、わたしはふたたびあの金色の光が自分に降りそそぐのを感じた。それは自分の存在を受け入れ、肯定してくれる力だった。難解で意味不明なことばがたくさんならんでいる現代詩は、意味なんかを超えて「世界のなかのわたし」をじかに祝福するものだった。