『王陽明「伝習録」を読む』著:吉田公平
疑いながらも信じること

 日本では一七世紀に、中国原産の性善説が人間教として学ばれてから既に四百年。その間、書院・私塾・藩校などで熱心に学ばれた。戦争の時代が終息して明日に希望を持てる時代の恩恵をうけて「いかに生きるか」に開眼したのである。この人間教は心学と呼称された。

 一人信者の連帯が心学普及運動の基礎である。教祖・教団を持たない無教会の柔構造であるから、時勢の波をもろにかぶりながらも、したたかに生きのびる素地がある。性善説の原理主義を紹介する『伝習録』が熱心に読み継がれてきた素因であろう。最も広く読まれたのは二〇世紀であろうか。拙著『王陽明「伝習録」を読む』(講談社学術文庫)では、その成果をふまえて、王陽明の思想を平易に読み解くことにつとめた。

 風化とは「風を以て民を化す」。四百年の風が人の心を風化させて、人間教の原理が人心に浸透し、性善説の本義を知らないままに、誰もが人間らしく生きるに違いないと信じる心性を培ったのではあるまいか。騙されやすい一面もあるが、不幸な人がいたら、最後の一人まで見捨てないと宣言した王陽明の気概が、日本人の心性に根付いているのかもしれないと実感させたのが東日本大震災の救援活動であった。

(よしだ・こうへい 元東洋大学教授、中国哲学)

 
◆ 内容紹介
中国・明代の儒学者、王陽明。当時、新儒教として学術思想界の主座にあった朱子学の論理構造を批判的に継承した彼の実践的儒学は、陽明学として結実する。近世以降の中国のみならず、わが国でも大塩中斎や吉田松陰、西郷隆盛ら、変革者たちの理論的背景となった思想とは何か。陽明学の最重要書籍を原テキストにしたがって読み解き、その精髄に迫る。
 
吉田公平(よしだ・こうへい)
942年、宮城県生まれ。東北大学文学部卒業。九州大学助手、東北大学助教授を経て、広島大学教授、東洋大学文学部教授を務める。陽明学者。専攻は中国哲学、中国近世思想史、日本儒学思想史。著書に『陸象山と王陽明』『伝習録』『洗心洞箚記』『日本における陽明学』『陽明学が問いかけるもの』『菜根譚』『論語』などがある。