『王陽明「伝習録」を読む』著:吉田公平
疑いながらも信じること

 孟子は人間の現実態を捉えて善だと主張したのではない。戦国時代の人であった孟子はあまりにも悲惨な現状を見るにつけ、皆が幸せに生きられる社会を将来するための究極的な資源として、他人の不幸を見逃すことのできない感性を人間の本性と認めて性善説を提言したのである。

 悲惨不幸を回避する方策として、社会政策の立案執行、政治制度の改革、生産力の増強など、当時の論客たちは諸説織り交ぜて諸国の君主に遊説した。もちろん孟子も力説しているが、孟子の立論の特長は人間の本性は善であるということを基礎にしているところにある。

 孟子の性善説は長いこと無視された。それを人間理解の根本にすえて儒教思想を一新した立役者が朱熹であった。万人を幸福に導く責任意識を涵養し、万人が人間であることに覚醒する可能性を担保する根拠として、性善説を再構成したのである。

 性善説とは、多様な姿を見せている人間模様を説明しているのではない。あくまでも「本来は善である」ことを主張する。その意図するところは、他者と共に人間らしく生きる、その可能性を信じることである。

「人間らしく」という表現はいかにも曖昧である。かつて山本七平氏は日本人の心性を「人間教」と述べられた。言い得て妙である。孟子は人間と禽獣との違いは紙一重であると述べた。その紙一重を逸脱した姿を目の当たりにして思わず「こん畜生」とののしるのは、人間失格と決めつけたことになる。

 畜生との紙一重の違いとは、人間の本性が善であること、この一点に人間の尊厳がかかっている。つまりは自分にも他者にも人の道にふさわしい生き方をしなされと促すのが性善説である。本性が善なのだから誰でもが実践できるはずです。そのように自他の可能性を信じなされと。

 生まれながら持ち合わせている「善なる本性」に委せるだけで大丈夫な訳がないという疑問・批判がすぐさま頭に浮かぶ。人間は弱い存在です。自らの可能性を信じるだけでは弱さを克服できません。一六世紀末に中国にやってきたイエズス会のマテオ・リッチの批判である。天主に救済を祈りなされ。祈る力も天主の恩寵なのですぞ。他力信仰である。天主は確かに居られるのですか。居られないかもしれないが居ると信じて祈るのです。

 天主の存在を実証できないのと同様に、人の本性が善であることも実証できない。人間が織りなす実情は様々だが、その本性は善なのだと確信することを悟りという。祈りの宗教ではなくして、悟りの宗教とでもいおうか。そういえば禅宗も悟りの宗教である。

 朱熹は本性が善であることを信じながらも、現実の人間は弱き存在であることを配慮して、なまの現場に立ち向かう前に周到な準備をしなされと忠告する。朱熹の忠告に窒息して自由を求めたのが王陽明である。あるがままの人間(心)が、そのままで固有している本性を実現しているのだから、各自の自主性に委せたらよいと「心即理」(私が真理を創造する)と説いた。性善説の原理主義である。原理主義はいつも危険視されながらも、自分らしく生きたいと願う人々をことのほか魅了してやまない。