取り戻せるか『失われた20年』――迷走したバブル崩壊後の経済政策 第1章 焦土からバブルの「宴」まで

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川北 隆雄

「それでも銀行の頭取か!」

 結果的には大成功した「所得倍増計画」であり高度成長だが、一直線に進んだわけではなく、かなりの紆余曲折があった。

 とりわけ、政策当局者や経済人に衝撃を与えたのは、発生の年にちなんで「(昭和)40年不況」とも、その規模から「戦後最大の不況」とも、とりわけ証券業界を直撃したことから「証券不況」とも呼ばれた景気後退である。同不況は、高度成長前半の最大イベントだった東京五輪開催の翌月である1964年11月から翌65年10月までのちょうど1年間だった。このわずか1年の間に、台所用設備機器メーカーのサンウェーブ工業や特殊鋼メーカーの山陽特殊製鋼など有名大手企業が倒産した。

 そして、野村、大和、日興(現SMBC日興証券)と並ぶ四大証券の一つ、山一証券にも危機が迫っていた。証券会社は、銀行など金融機関と違って、預金受け入れ・貸し出しを通じて信用創造を行うわけではない。また、会社の資産と客の資産は区別されているため、どんな大手証券が破綻したとしても、金融システムをはじめ経済の根幹に理論上は影響がないはずだ。

 しかし、一つ大きな問題があった。当時の証券会社は、長期信用銀行三行などが発行する割引金融債券の「運用預かり」で資金を調達し、運用していた。証券会社は割引債を顧客に販売するとともに、その割引債を「運用預かり」という形で、事実上の利子である償還差益に利子を上乗せして預かり、それを短期金融市場や銀行などから資金を取り入れる際の担保に差し出し、事実上の信用創造を行っていたのである。だから、もし証券会社が倒産すれば、担保に供された割引債は客に戻って来ず、金融システムが破綻する恐れがあったのである。

 大蔵省は在京紙や通信社などと山一証券問題についての報道協定を結んでいたものの、協定の枠外にあった九州の有力ブロック紙、西日本新聞が65年5月21日、「山一証券、経営難乗り切りへ 近く再建策発表」との特ダネを掲載した。この報道によって、山一の全国約90の支店には、運用預かり解約を求める客が殺到した。一種の「取り付け」であり、その動きがさらに激しくなれば、金融不安は全証券界、さらには銀行業界にも波及する恐れがあった。

 東京・赤坂の氷川神社近くの閑静な住宅街の一角。黄土色の塀に囲まれた広大な屋敷がある。かつては門柱に「氷川分館」の表札がかかっており、どこかは不明であるものの、大企業あるいは有力団体の所有になるものということは分かった。今ではそれすらもなく、個人のものなのか、企業のものなのかすらも不明だ。それでも、金融業界に関心を持っている者なら、それが日本銀行氷川分館、あるいは氷川寮であることを知っている。要するに日銀が保有する自前の「超高級料亭」であり、日本の金融に関する重要事項はここで密議を凝らされるのである。

 西日本新聞の特ダネから1週間後の同月28日午後7時過ぎ、この日銀氷川寮に金融界の重要人物7人が集まった。大蔵省の佐藤一郎事務次官、高橋俊英銀行局長、加治木俊道財務調査官、日銀の佐々木直副総裁、日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)の中山素平頭取、富士銀行(同)の岩佐凱実頭取、三菱銀行(現三菱UFJフィナンシャル・グループ)の田実渉頭取である。民間3行は山一のメーンバンクだった。議論のテーマは、日銀が民間銀行に対して無担保で資金を融通する特別融資を、山一に対して適用するかどうかだった。三菱銀行出身の宇佐美洵日本銀行総裁が来なかったのは、新聞社の張り込みで秘密会合の存在が漏れることを恐れたためといわれる。話はなかなかまとまらなかった。