取り戻せるか『失われた20年』――迷走したバブル崩壊後の経済政策 第1章 焦土からバブルの「宴」まで

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川北 隆雄

 後藤は58年度『経済白書』で、その理由について「神武景気のときのような高い投資水準が無限につづくことを期待して生産力の拡充が行われていたといつても過言ではない。/こうした過大な設備投資は一方で設備能力を累増させ、能力増大が今後日本経済に大きな重圧をかけようとしている」と説明した。

 後藤の安定成長論を強く批判したのが、大蔵官僚の下村治である。下村は、投資には市況に左右される「感応投資」と、企業家の将来ビジョンに基づく「独立投資」とがあり、当時の日本経済は独立投資が原動力になっているとの見方をしていた。そして、日本経済の成長はこれからが本番だと見ていたのである。下村は、大蔵省の先輩である池田勇人のブレーンを務め、自らの理論を政策で実証しようとした。

 池田は岸信介内閣の国務相を退任して無役となっていた59年3月9日、日本経済新聞朝刊に次のような論文を発表した。

「いきなり月給を二倍に引上げるなどといったらインフレになる、国際収支がまたもや赤字になると心配する人があろう。もっともなことである。私の主張はいま月給をすぐ二倍に引上げるというのではなく、国民の努力と政策のよろしきをえれば生産性が向上し、国民総生産(GNP)、国民所得がふえ、月給が二倍にも三倍にもなるというのである」(「私の月給二倍論」)。

 月給二倍論は後に所得倍増論と名を変えた。月給だと、サラリーマンにしか恩恵がないと見なされるので、自営業者や農家にも支持してもらえるように所得としたのである。池田の首相就任後の60年12月、「国民所得倍増計画」が閣議決定された。当初3年間の実質成長率を年率9%とする大胆な計画だった。下村らブレーンが練り上げた理論を政策化したものである。下村は年度ごとの実際の成長率を極めて正確に予測したため、「教祖」と呼ばれるようになった。高度成長教の教祖である。

 こうして、財政や政府系金融機関などの政策金融の政策手段を駆使して、名目GNPベースではわずか5年後に倍増を実現、目標としていた実質GNPは8年で倍増させたのである。10年で実質GNPを倍増させるという野心的な試みは、それ以上のスピードで実現された。下村は理論ではなく、高度成長という事実そのものによって、後藤との論争に終止符を打ったのである。

あゝ上野駅

 未曾有の速度の高度成長を実現するには、資本、設備だけでなく豊富な労働力が必要だった。そのため、地方の農村から、次男以降を中心に労働力を集めたのである。彼らの多くは中学を卒業したばかりで、集団で臨時列車に乗り、東京や大阪、名古屋などの大都市の大企業や中小企業、商店などに就職した。主に東北地方から、最も多くの集団就職者を受け入れた東京では、「北の玄関」上野が終着駅だった。集団就職列車の運行は高度成長が始まった54年から、その余熱が残っていた75年まで続いた。

「今から四十五年前(昭和29年)、東北地方の中卒の少年たちを労働力として東京に送り届ける「集団就職列車」が走りはじめた。青森県弘前市で畳店を営む清野勝衛さん(61)は、その年、集団就職第一期生として上野駅に降り立った。JRではなく国鉄と呼んでいた時代だ。/「弘前駅とは比較にならないほど大きくて、広い駅だった」。が、郷里からの十八時間を暗い心で列車に揺られてきた清野さんは、上野駅に都会の息吹をかぎとる余裕もなく、ただ圧迫感を覚えるだけだった」(読売新聞社会部編『あゝ上野駅』2000年、東洋書院)。

 彼らの多くは、「金の卵」とおだてられてはいたものの、故郷の父母と別れて、必ずしも希望に燃えていたわけではなく、「暗い心」で大都市にやってきたのである。実際、井沢八郎が歌った「あゝ上野駅」(1964年)の詞に「お店の仕事は辛いけど……」とあるように、仕事は決して楽ではなかった。それでも、多くの少年たちは「明日は今日よりも豊かになる」と信じて、頑張ってきたのだ。日本の高度成長を支えた一要因は、彼らの労働力だった。大量の労働力受け入れの舞台だった同駅18番ホームは99年に廃止されて、今はない。井沢の「あゝ上野駅」の碑が地元の有志によって2003年、駅舎の脇に建てられ、当時の面影を銅板に刻んでいる。蒸気機関車の前に学生服姿の少年たちが、希望に燃えた表情で立っている図柄だ。