取り戻せるか『失われた20年』――迷走したバブル崩壊後の経済政策 第1章 焦土からバブルの「宴」まで

メルマガ「現代新書カフェ」
川北 隆雄

「インフレ和尚」の生産再開

 同計画の責任者は、翌47年1月末から経済安定本部総務長官を兼務した石橋湛山蔵相(後に首相)で、実行部隊は経済安定本部だった。同本部は第二次大戦後の経済危機を乗り切るため同年8月、臨時に設置された重要経済行政の総合企画・統制官庁で、総裁は首相であり、商工省(その後通産省、現経産省)、大蔵省(現財務省)など経済官庁や民間から広く人材を集めた。

 東洋経済新報社主幹、社長などを務めた経済ジャーナリスト出身の石橋は同年4月の衆院選で落選したにもかかわらず、翌5月発足の吉田内閣で蔵相に就任したばかりだった。石橋は当時をこう回想している。

「食糧の不足で、非常に多数の餓死者が出る危険があるというような放送が流れ、ために物の買いだめ売惜しみが起り、インフレの危険を増すという状況であった。まさに一触即発、暴動でも起きそうな時であったから、なんとかして食糧の輸送を確保したいと考えた。また緊急を要する食糧の増産のための化学肥料の増産を急ぐ必要にもせまられた。その上、汽車でも止まるような事態を起こしたら人心に与える影響は大きい。いずれを解決するにも石炭を確保することが先決問題であった」(石橋湛山『私の履歴書 反骨の言論人』2007年、日本経済新聞出版社)。

 こうして、まず石炭、次いで鉄鋼の増産を目指す傾斜生産方式が実行された。そのための資金は主に、全額政府出資の特殊法人である復興金融金庫が発行する債券、復興金融金庫債(復金債)で賄われた。復金債は日銀引き受けで発行されたため、通貨が膨張し、猛烈なインフレが進行する原因となった。「復金インフレ」である。このため、石橋は「インフレ和尚」と呼ばれた。和尚というのは、石橋が寺の出身だったからである。ともあれ、激しいインフレを起こしながらも、日本経済はとにかく生産を再開させ、復興への道をたどり始めた。

 だが、このインフレはどこかで収束させなければならなかった。そのために、ジョセフ・ドッジ全米銀行協会会長(デトロイト銀行頭取)が49年2月、連合国軍最高司令官、マッカーサー元帥の財政顧問・公使として招かれた。連合国軍総司令部(GHQ)が前年暮れに日本政府に突きつけていた経済安定九原則を実行させるためである。九原則の最も肝要な点は、インフレを収束させるための予算の均衡だった。ドッジ・ラインに沿って編成された49年度予算は、一般会計のみならず、各特別会計、政府関係機関予算のそれぞれを均衡させた「超均衡予算」だった。復興金融金庫は同年3月末には実質的に業務を中止し、復金債も短期間に償還されることになった。為替レートも、品目による複数レートから、実勢よりは円高の1ドル=360円の単一固定レートに設定された。

 このドッジ・ラインは当然ながら、厳しいデフレ圧力となり、中小企業の倒産、中小企業経営者の自殺、大企業の人員整理などが相次いだ。「安定恐慌」である。

 ドッジ・ラインが始まって1年余り後の50年6月、南北に分断されていた朝鮮半島では、北朝鮮が統一を目指して韓国に侵攻した。朝鮮戦争である。韓国を支援した米軍による物資買い付け、在日米軍将兵やその家族による消費、米国による経済援助増額など狭義、広義の「朝鮮特需」が日本経済を潤した。日本経済はドッジ不況から息を吹き返したのである。