一手も悪手を指さなかった三浦八段は、なぜ敗れたのか

「人間対コンピュータ将棋」頂上決戦の真実【後編】
山岸 浩史

「定跡」とは、序盤の戦い方の体系のことだ。

将棋というゲームには、理論上は「答え」、つまり必勝定跡が存在する。とはいえ、「場合の数」は膨大で、必勝定跡が発見される前に地球の寿命が尽きるともいわれている。

それでも棋士たちは少しでも将棋の「真理」に近づくため、研究を重ね、さまざまな定跡を創り出している。定跡こそは、将棋における人間の「知」の集積なのだ。

そこへもし、序盤の構想力まで備えたコンピュータが参入して、人間とともに定跡を創っていくとしたら、あるいは人間が創った定跡を次々と否定していったら---それはおおいに歓迎すべき、刺激的なことのようでもあり、勝負で人間が負けるより抵抗を感じることのような気もする。

そんなことを考えていると、阿部は目を輝かせてこんな話を始めた。

僕、『ボーカロイド』のファンなんです。ご存じですか? 人間が歌っているみたいな歌声をコンピュータで作る、ヤマハのプログラムです。

その歌が『オリコン』の3位に入ったり、ニコニコ動画で200万回も再生されたりしているんです。『長崎は今日も雨だった』の作曲をした人も、80歳近いのにボーカロイドで歌を作っています(彩木雅夫氏・79歳)。

機械が作った歌が人間の歌と同じくらい人気が出るなんて、歌の世界では衝撃的なことでした。実は僕もボーカロイドをやってみたくなって、昨日、ソフトをアマゾンに注文したところです

──いやー、知りませんでした。人間の歌よりもお好きなんですか?

僕はやっぱり人間の歌のほうが、独創性とか自由度があっていいなと思っています。でも、ボーカロイドのほうがいいと思っている人もいます。

もう歌の世界では、人間もコンピュータも変わらなくなってきているってことですよね。だったら将棋の世界でそうなっても、しかたがないかなと思うんです

結果として電王戦に出場した5人の棋士で阿部だけが勝利を収めた理由と、彼のコンピュータに対するこうしたスタンスとを安易に結びつけるべきではないだろう。ただ彼は、私がいままで会ったどの棋士とも「質感」が違うように思った。

──本格的にプロをめざすまでは、あまり「人」と指していなかったんですよね?

はい、(生まれ育ったのが)田舎だったので、道場に行っても強い人とかいなくて、年に何度かある大会のほかは、家のパソコンでネット将棋を指していました。だから、目の前に相手がいないのは普通のことでした(笑)

──憧れている棋士、あるいは目標にしている棋士はいますか?

いえ、いないです。こんな棋士になりたいとか、こんな将棋を指したいというのもないです。もちろん七冠王にはなりたいですけど、血を吐くような努力が必要なんでしょうね

阿部とはつい長話をしてしまい、第4局での塚田泰明九段の戦いぶりにも話題が及んだ。その将棋が、阿部の第1局以上にさまざまな物議をかもしたことに私が触れたとき、彼は強い口調で言った。

戦った人じゃないとわからないことがあります。戦った人のことを批判するのは、将棋の人気を下げることになると思います

そのときの阿部は、私が知っている「棋士」の顔になっていた。

絶望のどん底に突き落とされたとき

「なぜ涙が出たのか、ですか? 負け越さずに三浦さんにつなぐことができた、その安堵からです。

もちろん、投了すべきかとも思いました。批判があることも知っています。でも、どんな形であれ、自分はチームのことを考え、最優先したんだ、そう思うと……。

どうも『チーム戦』という言葉に弱いみたいです。その言葉を口にすると、ううっ、と来るんです」

自分が敗れれば人間の負け越し(1勝3敗)が決定する危機を回避したチーム最年長、48歳の塚田は、壮絶な戦いから1週間が過ぎてもまだ興奮状態にあるように見えた。

絶対に負けられない一戦でPuella αの猛攻を受け、苦戦を自覚した塚田が突然、「入玉」(にゅうぎょく)を企てたところから波乱は始まった。入玉とは、玉が敵陣に入り込むことだ。

総じて将棋の駒は後ろに動く能力が低いため、入玉すると、その玉を詰ますことはほぼ不可能になる。双方が入玉して詰まなくなると、ゲームは本来の将棋とはまったく異質な「持ち点勝負」に移行する。

飛車と角を5点、それ以外を1点と数え(玉は除く)、合計24点に満たなければ負けになるのだ。双方が24点をキープしたことが確定すれば、引き分けとなる。

ところが第4局の塚田は、飛車も角も見殺しにして、駒数を度外視した入玉をめざした。自分の持ち点は24点にはほど遠いので、相手のPuella αにも入玉されたらまったく勝ち目はない。しかし塚田には狙いがあった。

実は、コンピュータは入玉するのを苦手としている。ゲームが変質してしまうことに対応できず、「自分が入玉すれば勝ち」という状況になっても、そう認識するのが難しいのだ。

Puella αは入玉してこない。自分だけ入玉して安全を確保すれば、あとは攻めるだけだから勝機はあるはずだ──。それが塚田の逆転へのシナリオだった。

ところが、なりふり構わず自らの入玉を確定させた塚田の目の前で、ありえないことが起きた。