ソフトとの対局3日前、「棋界の武蔵」三浦八段が漏らした本音

「人間対コンピュータ将棋」頂上決戦の真実【前編】
山岸 浩史
金子知適さん(左)らGPS開発者チームは別室でパソコンを操作

「枝が全部、赤になるのがこちらの理想。そうすれば勝ちですからね」
と、GPS開発者の1人、金子知適さんは笑う。【※訂正1】

この勝負がGPSと開発者にとってどんな意味をもつのかを聞いてみると、金子さんは柔和な表情はそのままにしばらく沈黙したあと、ようやく口を開いて意外なことを話しはじめた。

「棋士の文化と、われわれ研究者の文化は違うんですよ」

ぶ、文化、ですか?

「棋士は『この一局の勝負にすべてが懸かっている』と考えます。だけど私たちは『1000局指してみないと本当の強さなんてわからない』と考えている。一局だけでは、出来不出来がありますからね。

研究者はいつも、誤差のかたまりを相手にしているんですよ。だから今日の結果で、コンピュータのほうが強いとか、人間のほうが強いとか、そういうことはまったく考えません。負かされて、修正すべき点が見つかればそこを直す。その繰り返しです。

人間を超えようなどとは思っていません。ただソフトを強くしたいんです。5月のコンピュータ将棋選手権が近づけば、今日のこともたぶん忘れてしまうでしょうね。【※訂正2】人間には負けても、ほかのソフトにだけは負けたくないんです」

たしかにそれは、棋士たちとも、いつのまにか勝負のゆくえに気が気でなくなっている私とも、まるで違う「文化」だと思った。

「でも、棋士の『この一局』という気持ちもわかります。だから、対局室でパソコン操作をして、三浦さんがマウスの音を気にされるといけないので、私は外で操作することにしました。それから、670台の大規模クラスターにしたのも、せっかくの特別な舞台ならそのほうが面白いと思ったからなんです」

【訂正1】金子氏より、この発言は金子氏および他のGPS将棋開発者の方のものではないこと、また、「笑う」という表記に対応する事実もこのタイミングにはないとのご指摘がありました。検討いたしましたところ、ご指摘のとおりですので、この部分を次のように訂正します。→〈枝がすべて赤になれば、GPSの勝利となるわけだ。〉
【訂正2】金子氏の発言趣旨を筆者が誤認しておりましたので、この部分を次のように訂正します。→〈5月のコンピュータ将棋選手権でもし負けたら、GPS将棋のことも皆から忘れられてしまうでしょうね〉

人間には思いも寄らない異様な一手

将棋界というところに、一般の世界とは違う閉鎖的な面があることは否定できない。だが、将棋界の人たちは、おおむね「外界」からの訪問者には親切だ。

控え室に押し寄せている報道陣の中には、将棋の知識がまったくない人も多く、かなり「斬新」な質問をしてくる記者もいたが、棋士たちはそのひとつひとつに意を尽くして答えていた。この業界を何とか盛り上げてほしい、というのは彼らの共通の願いなのだ。今回の電王戦に出場した5人の「戦う動機」も、言ってしまえばそこにしかないのではないかと思う。

控え室のモニターに、この対局の大盤解説会が催されている「六本木ニコファーレ」の場内が映し出された。客席の最前列に若い女性が何人も座っているのが見える。これまでの将棋ファンとはまるで違うこの客層こそ、出場した棋士たちが流した血の確かな代償と言えるだろう。

その大盤解説会で、屋敷伸之九段の聞き手役を務める矢内理絵子女流四段が、特別対局室にいるもう1人の「三浦」について話題にした。対局者の三浦八段の前に座り、GPSが選択した手を盤上に指す「模擬対局者」役を務める三浦孝介初段、まだプロをめざして修行中の奨励会員だ。今回の電王戦で全局、この仕事をまかされている三浦初段を、矢内はこう賞賛した。

「三浦初段は全局を通じて、一度も正座を崩していないんですよ」

ところが、屋敷九段がすかさず言う。

「それは当然です。もし正座を崩したりして、師匠に見つかったら大変ですよ」

機械ならぬ生身の人間は、こうした「修行」によって、正確な読みと揺れない心を手に入れるのかもしれないな、と思った。そしてふと、将棋で「人間がコンピュータに負けちゃいけない」のは、彼らの技術の陰にこうした苦しみがあることを、誰もが感じ取っているからではないかとも思った。だから負けちゃいけない。というより、負けてほしくないのだ、と。

その「模擬対局者」三浦初段の手が舞い、盤上にGPSの指し手「△7五歩」が指された。これまで不気味なほど淡々と三浦八段に追随していたGPSが、突如として戦端を開いたのだ。それは、人間には思いもよらない異様な一手だった。

後編に続く〉