ソフトとの対局3日前、「棋界の武蔵」三浦八段が漏らした本音

「人間対コンピュータ将棋」頂上決戦の真実【前編】
山岸 浩史

度を超したファンとしての具体的な気がかりは、業界の衰退だった。将棋界の世間への「売り」は、何といっても「天才集団」のイメージだろう。人間がコンピュータに勝てないことが知れわたったとき、たとえばタイトル戦を主催する新聞社などは、それでも将棋への出資を続けるだろうか。

電王戦は、日本将棋連盟の米長邦雄前会長がニコニコ動画のドワンゴ社と組み、新たな将棋ファン開拓のための試みとして開催された。対局中継の入場者は毎局約40万人にものぼり、イベントとしてはここまで大成功を収めている。

この五番勝負の開幕を見ずに亡くなった米長の、将棋界への大きな置き土産といっていいだろう。だが、このあとにどんな風が吹くのかは、誰にもわからないのだ。

そうした状況を痛いほどに、おそらく押しつぶされそうなほどの重圧として感じながら、この日、最終局のリングに上がるのが、棋士側の「ラスボス」三浦弘行八段(39歳)である。

「相手がGPSだとわかっていたら、断っていた」

午前9時20分、私よりひと足早く将棋会館に着いていた担当編集者が、タクシーから降りる三浦八段と遭遇している。白いマスクをしていても、鋭い眼光ですぐにわかったという。

うつむいたまま早足で歩いてくる三浦に、編集者は気後れしながら「おはようございます」と声をかけた。三浦はうつむき加減のまま「おはようございます」と返したあと、面識ある編集者であることに気づき、「あ、どうも。今日はよろしくお願いします」と挨拶してきた。

こんな状況でも、おざなりではない挨拶をしてくれた三浦に、編集者は何かもっとましな言葉をかけたかったが、「がんばってください」としか言えず、そして頭を下げた。三浦はもう一度「よろしくお願いします」と言って小さくうなずき、思いつめたような視線のまま館内へ入っていった。そのあとに残ったのは、剣豪のような風貌からついた「武蔵」という異名どおりの殺気だったという。

わずか10人しか在籍できないトップリーグ「A級」の座を12年維持し、羽生善治名人(当時)と名人戦を戦ったこともある、まごうかたなき一流棋士。1996年には羽生から「棋聖」のタイトルを奪い、その七冠王に終止符を打ったことで一躍有名になった。前期A級リーグ、羽生は9勝1敗で優勝して、いま名人戦で森内俊之名人に挑戦中だが、その羽生の唯一の黒星をつけたのも三浦だった。

電王戦にその三浦が出場すると聞いたときは、少なからず驚いた。負けたときに失うものが、あまりにも大きいと思ったからだ。

三浦に電話をしてみたのは、対局3日前の夜だった。いまでなくても結構です、対局後、数日以内にお話を聞かせていただけませんか、と恐縮しつつ願い出ると、彼はこう答えた。

「いや、いまはちょっと、そういう約束はしたくないので」

私は気持ちを察したつもりで「では勝ったときだけ、ということでお願いします」と続けたのだが、三浦はやや早口になってこう言った。

「いえいえ、勝ったら、とか負けたら、という話ではなく、いまは、あとで約束があるとかそういうことを、少しであっても頭の中に入れたくないんです」

すべてを悟った気がして失礼しようとしたが、「いまなら、少しだけならいいですよ」と三浦は言ってくれた。私は心のなかで手を合わせながら、いちばん聞きたかったことを尋ねてみた。

──どのような経緯で、三浦さんの電王戦出場が決まったのですか。

「私の場合はドワンゴさんからご指名をいただいていたようで、直接、ドワンゴの方からも熱心に頼まれまして……。断りづらい気がして、そこまでおっしゃるなら、とお受けしました。そのときは私も、コンピュータと戦うことにさほど後ろ向きのイメージはもっていなかったので」

でも、と三浦は言葉を継いだ。

 「もし、相手がGPSだとわかっていたら、断っていたと思います」

ほかのソフトよりも、明らかに図抜けている

第5局で三浦が戦う電脳界の「ラスボス」、GPS将棋──東京大学大学院総合文化研究科の開発者6人のチームが開発した「史上最強」ともいわれるソフトだ。

その強さの理由は、それぞれ得意分野が違う6人が、自分の担当領域を自由裁量でどんどん強くしていけるところにあるようだ。いわば、隣が何をやっているかは気にせず、全員で寄ってたかって改善を続けているのだ。

そのGPSとの対決を3日後に控えた三浦は、こう打ち明けてくれた。

「いま、(GPS側から)貸し出されたソフトと練習で指しているんですが、コンピュータが苦手とされる序盤戦でも、GPSはスキがないんです。そして、こちらが少しでも不利になったら、そのまま終わりです。

ほかのソフトよりも、明らかに頭抜けています。強いとは聞いていましたが、これほど強いとは……。実は、タイトルも狙えるある若手有望棋士が、GPSに18連敗しているんです」

さらに戦慄すべきことに、本番ではこのGPSが670台も連結され、巨大クラスターとなって三浦に襲いかかる。読みの速さは、1台のときの26倍にもなるという。まさに化け物だ。

「1台でもそれくらい強いのに、670台の強さはどれほどのものなのか……。ただ、『台数はそれほど関係ない』という人もいるし、そこは未知数です」