第31回 福富太郎(その一)
ついた異名は、「キャバレー太郎」。あの高級旅館が毎年彼に魚を贈る理由

福田 和也
福富太郎(1931~)16歳で働き始め、26歳で独立。大箱キャバレーの経営で莫大な富を築いた

 福富さんが「デビュー」した昭和二十二年は、特別な年だった。

 というのも、二十二年は東京の盛り場でのクリスマスパーティがようやく定着したからである。

 当時、評判を呼んだホール・キャバレーは、銀座のニューメトロ、ニュータイガー、銀座会館、ショウボート、京橋のアラビアンナイト、新橋のグランド南海、ロザンヌ、渋谷のナイト上海、神田のウルワシ、サロン港、浅草のガーネット、新世界、上野のシナル、新宿の帝都、パリーなどだった。

 福富さんは、十六歳から銀座のメリーゴールドでボーイとして働いていた。

 そして昭和二十四年九月に開店した新宿處女林で、毛利喜八に師事することになった。
 二十四年五月、飲食営業臨時規整法が成立し、制限販売が許可された。

 当時、ほとんどのキャバレーやバーは、酒の入手はヤミに頼るしかなかった。

 制限がかけられているとはいえ、正規ルートで入手出来る事は、よろこばしい事だった。

 当時、酒やバナナなどの果物、ガソリン、灯油などは、事実上、ヤミで取引されていて―なにしろ、人気作家だった獅子文六が『バナナ』という、バナナ輸入解禁にまつわる長編小説を書いてベストセラーになったという時代であるから―、正規品は、貴重な存在だったのである。

 規整法の成立を受けて、東京社交事業協会が発足し、銀座メトロの榎本明三が会長に就任した。事業協会の発足により、キャバレー業界は表舞台に躍り出たのである。

『週刊現代』2013年5月4日号より