斎藤も松坂も…安楽くん大丈夫か?
「投げ過ぎ甲子園球児」たちは、今後悔しているのか

フライデー

 そう答えるのは、かつての甲子園準優勝投手、福岡真一郎だ。 '94年の夏、鹿児島商工が『樟南』と校名を変えて出場した最初の甲子園で全5試合に登板。742球を投げ抜いた。

「一人で投げ続けたわけですが、その時は『酷使』だなんて思いませんでした。甲子園に行くために頑張ってきたわけだし、投げたくて仕方がなかったんです」

 高校卒業後は九州産業大を経て、社会人のプリンスホテルに進む。だが、右肩の故障に苦しみ、 '00年に同部が廃部となったのを機に引退を決めた。現在は福岡市内で加圧トレーニングジムのトレーナーを務めている。

 自身の経験をもとにフィットネスの道を選んだ福岡のような男もいれば、まったく異なる道に進んだ元エースもいる。 '96年の春、智弁和歌山を準優勝に導いた高塚信幸だ。総投球数は712。同大会中に痛めた右肩は近鉄入団後も治らなかった。在籍6年で投手、内野手、捕手とポジション変更を重ねるも、一軍出場を果たせぬままユニフォームを脱いだ。

「投げない」とは言いづらい

 現在、高塚は淡路島で寿司店『金鮓』を営んでいる。白球から白米へと握るものは変わっても、野球への関心は失っていなかった。

「安楽君の試合はテレビで見ていましたけど、正直ヒヤヒヤしました。投手って勝ちたい気持ちが強いと、投げてる時は不思議とキツイとは感じないんです。でも試合が終わると、痛みや蓄積された疲労が出てくる。僕の場合、大会後に投げようとしたら激痛が走って、投げることに恐怖心を覚えたんです」

 入団後の数年をリハビリに費やすことを前提にドラフト7位でプロ入りしたのだから、高塚の才能が非凡であったことは疑いようがない。それでも傷ついた肉体はついに元には戻らなかった。

「だからと言って、甲子園での連投を僕は後悔していません」

 高塚はそう話す。彼だけではない。前出の大野や福岡も口々に同じことを語っていた。それでは指導者の立場からすると、一人の投手だけをマウンドに送り続けることをどう捉えているのか。開星高校野球部の元監督として9度の甲子園出場を誇る野々村直通の意見はこうだ。

「基本的には、投手本人がどう考えるかです。仮に連投になっても『腕がちぎれても投げたい』と言われれば、私は投げさせます。しかし『将来のために肘や肩をすり減らしたくない』という考えを持っているのなら、それは尊重します。どちらが正しいというわけではない」

 もっとも、甲子園という大舞台で、10代の少年が「投げない」選択をするのは難しい。仲間のため、監督のため、そして自分自身の夢のために「腕が折れても」と投げ続ける。大人になって自分の野球人生をふり返った時、そこに悔恨はないのか。前出の大野は、母校である九州共立大の沖縄事務所長を務める傍ら、ボーイズリーグ(中学硬式野球)のチームを立ち上げて指導を行っているという。