しかし、今の神宮と古い神宮のあいだには、そうとう差異もある。神宮の社殿は、王政復古をなしとげた明治期に、荘厳化がはかられた。江戸以前の建築は、今ほど立派にいとなまれていない。
戦国時代には、式年造替が百年間ほどとだえている。その断絶前後に、形はけっこうかえられた。もちろん、式年造替ごとに、模倣の誤差も生じよう。そのささやかなずれも、千数百年にわたってかさなれば、大きなちがいをもたらしうる。伝言ゲームのアンカーが、どういう情報をうけとっているか、考えてみてほしい。
なるほど、遺跡の柱穴は、そのならび方が神宮のそれをしのばせる。土器や銅鐸の絵図も、神宮の姿をほうふつとさせないわけではない。しかし、似かよっているとは言っても、おおよそのところがそう見えるだけである。神宮から、棟持柱をもつすべての高床建築を想像するのは、無茶だろう。
遺跡の柱穴は、しばしば神宮の柱位置とつながりうる。考古学の絵画資料も、神宮めいた建物のあったことを、しのばせる。ここまでは、そう書いてきた。
しかし、同じような建物なら、フィリピンにもある。インドネシアやニューギニアでも、見いだせる。東南アジアの島々では、しばしば散見する民族建築の一類型に、ほかならない。日本だと、神宮ぐらいにしか、この形はのこっていないだろう。だが、世界に視野をひろげれば、今でもあちこちで目にすることができるのだ。
ひょっとしたら、弥生古墳期の棟持柱付高床建築は、フィリピン風だったのかもしれない。あるいは、インドネシア風だったという可能性もある。
もちろん、そうきめつけられる決定的なあかしは、どこにもない。私は、日本文化が成立する前の日本列島を、国際的に位置づけたいと思っている。その意味では、東南アジアとのつながりをとく一派に、共感をいだく。しかし、それが論証できるわけでは、けっしてない。
このほど文庫化された『伊勢神宮と日本美』(講談社学術文庫)は、両派のさやあてをおいかけている。国際派へのひいき目はあるが、おもしろい読みものになっているはずである。
(いのうえ・しょういち 国際日本文化研究センター勤務)