『伊勢神宮と日本美』著:井上章一
恐竜たちと伊勢神宮

 これだけの資料から、建築の全体像などしめせるわけがない。新聞などの報道でまま見かける立派な復元図は、まちがいなく空想のたまものである。そして、復元者の想いこみが復元図の形を左右する度合は、恐竜の場合よりいちじるしい。

 恐竜だと、化石化された骨がそろってのこっていることも、のぞみうる。皮膚の色や状態はともかく、全体の形状はかなりのところまでたどりうる。しかし、日本列島の木造建築に、それはまずのぞみえない。

 まあ、まれにはそれがしのびうる、運のよい遺跡もある。だが、たいていの発掘現場にのこっているのは、柱の穴だけである。その柱があった跡だけから、ほとんどの復元はなされている。恐竜になぞらえれば、足跡のみでその姿形を想いうかべているようなものである。

 考古学的な建築復元の全体像には、今せまるゆとりがない。ここでは、伊勢神宮にかかわる問題だけを、とりあげよう。

 弥生時代や古墳時代には、神宮に似た建物のあったことが、わかっている。土器絵画や銅鐸図が、そういう建物の姿をえがいているからである。また、遺跡からほりおこされる柱穴にも、神宮とつうじあう例は、ままある。柱のならび方が、神宮のそれとひびきあう建物跡も、見つけられているのである。

 具体的な形状を言えば、棟(むなもちばしら)持柱のある高床建築ということになる。

 こう書いてわからなければ、時代劇によくでてくる駕籠(かご)を想いうかべてほしい。前と後の担ぎ手が、轅(ながえ)というふとい棒にぶらさげられた駕籠を、はこんでいく。そのふとい棒にあたるところが、建物では棟になる。その棟をささえる柱、駕籠では担ぎ手に相当するところが、建物では棟持柱となっている。

 弥生や古墳の発掘現場からは、ときおり棟持柱のある高床の例が、見つけられてきた。そして、それらは、しばしば神宮風に復元されている。神宮をより古樸にしたような姿でえがかれ、またたてられてきた。

 恐竜の復元では、ガラパゴス諸島やコモド島の爬虫類が、その手がかりとなる。それと似たような役割を、日本では神宮がになうこともある。その意味では、伊勢がガラパゴスになっていると言えなくもない。

 神宮は、天武持統朝、七世紀末ごろに社殿の形をととのえたと、されている。以後、千数百年間、式年造替をつづけ、その形をたもってきた。今の神宮も、古い形をそのままつたえてきたのだと、よくみなされる。

 神宮の形を、弥生や古墳の建築復元にさいしても、ヒントにしようとする。それらを、古樸によそおった姿で、発掘現場にたてたがる。この姿勢は、神宮の保守精神をうやまう気持ちにも、ねざしている。あの形は、七世紀をさかのぼり、弥生期からできていたと考えたいわけだ。

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