『遺伝子が語る生命像』として1986年4月に出版したブルーバックスの1冊は予想外の好評を得て、24刷まで版を重ねた。しかし当時から実に27年が経過し、その間、生命科学はめざましい進展を遂げた。そこで今回、タイトルのキーワードを「遺伝子」から「ゲノム」に変更し、改訂新版を上梓することとなった。
約30年という月日はこの分野では非常に長く、この間の生命科学の発展をできるだけ取り込むようにした結果、中身はまったく異なるものにならざるをえなかった。しかし、元のスタイルはなるべく保ち、各項目は短い読み切りとし、全体の流れとして生命科学の発展と、その背後にある生き物がわれわれに教える思想を汲み取ってもらうように配慮した。
一方、生命科学の思想を変えてきたものが、解析技術の飛躍的な発展であることも重視した。思想と技術的な発展とは、相即不離である。新しい技術によって新しい事実が明らかとなり、その事実の積み重ねから、生物に対する見方が変革してきたのである。
この30年足らずの間に新たに登場した技術を列挙してみると、その発展の速さに驚愕する。
まず、遺伝子のノックアウト技術の発展によって、個々の遺伝子の生体内での機能が極めて明確に解析できるようになった。この結果、発生学、神経科学、免疫学といった高次生命機能現象の解析が格段に進歩した。
また、DNAの塩基配列決定の自動化ならびに高速化によって、個々の生物種のみならず、個々の細胞の遺伝子配列の決定が極めて短時間で行えるようになった。技術革新の速さはまさに日進月歩である。ヒトゲノムの全解読が21世紀の始まりを告げたとすれば、それに要した5~6年の歳月が今日ではほぼ数週間で可能になり、やがてこれが数時間の単位にまで近づこうとしているのは、天変地異の変革に近い大革新である。
質量分析によるタンパク質の分析技術の驚くべき進歩とその正確さによって、細胞内タンパク質相互の乖離会合関係などが、今日多数の研究室によって解析され、その相関図ができあがりつつある。
細胞内での個々のタンパク質の動的な動きを知るうえで、蛍光タンパク質(GFPに代表される)の活躍には目覚ましいものがある。その後に開発された色の異なる蛍光タンパク質を加え、細胞内で複数のタンパク質がダイナミックに乖離会合をすることなど、30年前では想像できなかった画像がわれわれの目の前に存在する。
また、画像解析としてMRIなど医学で発展してきた技術が動物、小動物にも応用されるようになり、また2光子励起顕微鏡により組織の生体内での構造や、その中における細胞の動きを継続的に追うことができるようになった。
このような技術的な進歩が、生命科学のものの考え方に大きな変革を与えようとしている。
目を転じて生命科学の将来を考えると、これまで辿ってきたいわゆる還元主義的な解析は、こうした一連の技術革新によって一種の極限にまで達しようとしている。しかしながら、分子レベルまで生命体を還元して解析したことによって、われわれは本当に生命とは何かを理解したであろうか。残念ながら、答えはノーである。これからは構成要素を統合し、全体としての生き物の姿をどのようにすれば把握できるのか、命とは何かをどのようにして語ることができるのかが問われる時代となった。すなわち「分子が織りなす命の綾」を知ることが生命科学者の夢である。
さらに、多くの生命科学の研究が、マウスなどの動物モデルを用いた研究を中心に進んできた。これは、純系動物を使うこと、すなわち遺伝的に均一な動物を使うことによって個体差が限りなくゼロに近づくからである。しかし、生命科学のひとつの大きな出口は、ヒトとは何かを明らかにすることである。またそのことによって、ヒトの健康保持に貢献することとなる。ヒトは各人が違うDNAを持ち、千差万別である。
次の30年は、ヒトにおける生命現象を統合的に語ることが求められる。個体差とその表現系、またそれらのもたらす疾病とその予防・治療へと生命科学が向かうことが予想される。
本書を完成させるにあたり、多くの方々のご援助をいただいた。とりわけ、秘書の白木裕貴さんには本書の口述を起こすところから図の作成にまで、全般的に多大なご尽力をいただいた。また、さまざまな角度からご批判いただいた縣保年、岡崎拓、木下和生、近藤滋、佐邊壽孝、武田俊一、田代啓、竹馬俊介、古川貴久、村松正道の各氏(五十音順)に厚く御礼申し上げます。