長谷川幸洋
『ジャーナリズムにおける客観性や公正性という「欺瞞」』

「真実を知りたい」と思って仕事をしているか?

 前回まで10回にわたって、政府や企業の情報公開とともに始まったデータ・ジャーナリズムの動向やニコニコ生放送の挑戦などについて書いてきた。今回から趣向を変えて、ジャーナリズムが基本に据える座標軸はあるのか、といった問題について考えてみたい。  
いうまでもなく、メディアやジャーナリストは世の中の森羅万象を相手にしている。政治、経済はもちろん社会、文化芸術、スポーツ、科学、さらには宗教といった心の問題も扱っている。およそ人間社会や自然に関する出来事でジャーナリストが観察と報道、論評の対象にしないものはない、と言っていい。

 同じように人間社会や自然を相手にしながら、学問の世界には政治学や経済学といったように系統だった説明と解釈、論理の体系がある。目的は真理の追求だ。ところがジャーナリズムの世界には、そうした首尾一貫した体系がない。報道は文字通り、記者とメディアによってさまざまであり、論評も種々雑多である。

 ジャーナリズムの目的が何かといえば、学問と同じように「真理あるいは真実の追求」であると思われるかもしれない。では、現場で日夜、取材に明け暮れている記者たちが「おれたちは真実を知りたいんだ」と思って仕事をしているかと言えば、必ずしもそうではない。

 そんなことより、新聞記者なら「この記事を書いて社内で評価されるか」、テレビのプロデューサーなら「こんな番組を作って視聴率がとれるか」が大事な問題だったりする。フリーランスの記者なら「編集者はオレが書く記事を面白いと思ってくれるだろうか」という問題がいつも頭をよぎるに違いない。 

 ジャーナリズムの現場では、真実の追求という立派なお題目より自分の出世や世間の評価、生き残りにかかわる問題のほうが、よほど大事になっている。つまり、記者が仕事に励むインセンティブはもっと現実的なものだ。

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