第24回 山崎種二(その三)
橋、倉庫、日本画。株で儲けて貯金した「ケチ種」のカネの投じ方

福田 和也

 昭和八年、米は大豊作だった。

 農林省の荷見安米穀部長は、米価の暴落を防ぐために、必死で米を買いあげた。

 当時、農業関係の倉庫はほとんどなかったのだが、政府は倉庫の容量を顧慮せずに買い続けたのである。

 山崎種二は、荷見部長に面会を申し込み、米をどこに収容するのか考えてほしい、と
し入れたが、部長の返答は「そんな事は、米を売る者が考えればいいだろう」という、木で鼻をくくったような言葉だった。

 種二は、考えた。

 倉庫を確保すれば、大儲け出来る。米を買うより、倉庫を買った方が儲かる・・・・・・。

 種二は半年分の倉庫代を前払いして、東京と横浜の倉庫を「借占め」した。

 新米が収穫され、全国から米が送られてきた。秋葉原の駅も、隅田の駅も、米がぎっしり詰まった貨車で溢れていた。東京のみならず、横浜も、神戸も同様の有様であった。

 米は届いたが、回米問屋は倉庫がない。倉庫がないから、米を買うことができなかった。

 米相場は、倉庫を押さえていた種二の独壇場となったのである。

二・二六事件発生。大ピンチを好機に変えた

二・二六事件 1936年2月26日、陸軍の青年将校らが永田町を占拠(写真)、3月に再開された市場で株式は大暴落した

 昭和十年、イタリア=エチオピア戦争が起こった。株の世界では、「遠くの戦争は買い」というジンクスがあるという。

 だが山種は、相場は過熱していると見て、手持ちの雑株を売りはじめた。

 株価は一向に下がらない。

 山一証券の太田収社長が、徹底的な積極策に出ていたのである。太田は、証券業界には珍しい、帝国大学法学部卒だった。