[虎四ミーティング]
駒田徳広(プロ野球解説者)<前編>「“無死満塁で敬遠”伝説の真相」

スポーツコミュニケーションズ

2日でリタイアした合同自主トレ

二宮: プロに入って、野手に転向するのは早かったですよね。
駒田: 担当スカウトも僕も最初から「野手として」という考えでした。ところが1月の合同自主トレーニングでは、ピッチャーと一緒に練習させられたんです。それでピッチングコーチに「僕はピッチャーとしてやるんでしょうか?」と聞いたら「藤田(元司)監督が1年間は、ピッチャーでやってもらうと言ってたから」と。身長が190センチあって、しかもサウスポーだったので、ピッチャー出身の藤田監督としては、ピッチャーとして成功してくれればという気持ちがあったんでしょうね。でも、僕としては絶対に無理だと思いましたよ。

二宮: ピッチャーとして限界を感じていたと?
駒田: 周りもわかっていたと思いますよ。だって、ブルペンに入らされましたけど、僕のボールを受けてくれたのは、1日目は守備コーチ、2日目なんて副寮長でしたから(笑)。プロのキャッチャーをつけるほどのピッチャーではないということですよ。それで「ピッチャーは勘弁してください。絶対に無理ですから。野手をやらせてもらえませんか?」って頼みこみました。そしたら、藤田監督も「そんなに嫌がっているなら」と言ってくれたようで、2月のキャンプからは野手としてやり始めたんです。

二宮: プロの練習は厳しかったでしょう?
駒田: 想像以上でしたね。当時、1月の合同自主トレーニングは新人選手も既存の選手たちと一緒にやっていたんです。僕は公立高校でしたから、期末試験が残っていましたので、合同自主トレは1月13、14、15日の3日間だけ参加をして、いったん奈良に帰って、また2月の途中からキャンプに合流するという予定になっていました。ところが、自主トレはあまりのきつさに3日間もたなかったんです。2日目でリタイアして、1日早く奈良に帰ってしまいました。

二宮: プロの洗礼ですね。
駒田: 「自主トレで倒れていたら、この先どうするんだよ」と不安になりましたよ。だから、奈良に帰ってからは、とにかくメチャクチャ走り込みましたね。おかげで2月のキャンプは、ちゃんと最後までやり切りました。今考えると、当時はキャンプよりも1月の合同自主トレの方がきつかったんです。