民主主義はキリスト教カルト
日本をダメにしたB層の研究【第5回】

 私が憎悪するのは、そのルソー的道徳性である—この道徳性がいまなおそれで影響をおよぼし、一切の浅薄な凡庸なものを説得して味方にしている革命のいわゆる「真理」である。(『偶像の黄昏』)

 フランス革命はキリスト教を否定することによりキリスト教を引き継ぎました。

 少しわかりづらいかもしれないが、これは伝統的なトリックです。

 パウロ(不明~六五年頃)はイエス(前七年頃~三〇年頃)の教えを除去することによりキリスト教を打ち立てた。マルティン・ルター(一四八三~一五四六年)は教会を攻撃することによりキリスト教を原理主義化した。ルソーは教会を否定することにより、そのもっとも劣悪な本能を近代イデオロギーに組み込んだわけです。

 そこでは依然として僧侶階級=神の権威を利用する勢力が権力を握ることになる。

 ニーチェはそこを指摘したのです。

 彼(ルソー)は、社会と文明とに呪詛(じゅそ)を投げつけうるために、神を必要としたのである。

(中略)

 自然人としての「善人」とは一つのまったくの空想であったが、神がそれをつくったというドグマでもって何か本物らしい根拠のあるものとなった。(『権力への意志』)

 要するに、神の再利用です。

 ルソーが唱えた「市民宗教」に影響されたロベスピエールは、一七九四年六月八日、「最高存在の祭典」という狂気のイベントを開催し、テルール(恐怖政治)を道徳的に正当化しました。アレントの分析は鋭い。

 かくて、彼(ロベスピエール)の述べる諸原理はドグマとしての価値を与えられ、その諸原理を遵守させるために彼が遂行する戦いは聖戦となる。聖戦の目的でありかつ革命がそのために行われているところの人民は、神聖な性格を賦与される。

 理論的にいえば、フランス革命で人民が神格化されたのは、法と権力をともに同じ源泉に求めようとしたため起った不可避の帰結であった。絶対君主は「神授の権利」にもとづくという主張は、世俗的支配を全能でもあり宇宙の立法者でもある神のイメージで説明し、その意志が法である神のイメージで解釈したものであった。ルソーやロベスピエールの「一般意志」もなお、法を生むのにただ意志するだけでよいところの、この神的な意志なのである。

 本書でもくりかえし述べてきましたが、法と権力を同じ源泉に求めてはいけないのです。権力の集中はロクな結果を生みだしません。