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なぜ日本人は「参加」したがり、なんでも口を挟みたがるのか? インターネットのブログや掲示板、SNS、グルメや書籍の口コミサイト、反原発デモ……。隙さえあれば意見を表明したくて仕方がない人々が発生した理由とは?
裁判員制度は文明を否定する制度です。
法務省は「裁判員制度が始まると、司法はもっと身近になります」「国民のみなさんが裁判に参加することによって、国民のみなさんの視点、感覚が、裁判の内容に反映されることになります」とホームページで述べています。
これは司法の民主化であり、法概念の混乱としか思えません。
司法に民意を導入してはならない理由は、法の根本に正統性の問題があるからです。
移ろいやすい民意を組み込めば「法の下の平等」「先例拘束の原則」が成り立たなくなる。
だからこそ司法は、プロ、専門家、職人が扱わなければならない。
ニーチェが指摘したように、法は「厳重に篩(ふるい)にかけられた巨大な経験」(『反キリスト者』)によって証明されます。
国家制度は「すなわち、伝統への、権威への、向こう数千年間の責任への、未来にも過去にも無限にわたる世代連鎖の連帯性への意志がなければならないのである」(『偶像の黄昏』)。
裁判に「民意」を反映させることは歴史を破壊するということです。
近代に脳幹まで侵された人々が「開かれた裁判」「開かれた行政」「開かれた皇室」などと言い始めていますが、アジの干物じゃあるまいし、なんでもかんでも開けばいいというものではありません。
開いていいものは言論だけです。