浜田宏一 「『歌を忘れたカナリヤ』白川日銀総裁から送り返されてきた公開書簡」

〔PHOTO〕gettyimages
 

白川方明という名の優秀な学生

 経済学者として長い間、教鞭をとってきた私だが、学生に「大学院に進んでみないか」と声をかけることは少ない。本人に能力がなければ、あとから、本人にとっても、指導する側にとっても、たいへんになるだけだからだ。いまでは就職難のため、あるいはモラトリアム期間の延長のために大学院へ進む学生も珍しくないが、私は決して勧めようとは思わない。

 そんななかで数少ない例外の一人が、白川方明氏だった。そう、日本銀行総裁である。
 白川氏に初めて会ったのは、一九七〇年のことだ。私が東京大学経済学部で教鞭をとっていた時代。その聡明さには、たいへんな感銘を受けた。

 経済学者には、数理的な能力と、そこで得た洞察を政策問題に適用して考える能力が必要だ。白川氏には、その二つが兼ね備わっていた。論理的な構想力、つまり論理とその背景を精密につかむ力にも、目を見張るものがあった。そして、真面目で努力家でもあった。一九七二年、私が館龍一郎先生(東京大学名誉教授、青山学院大学名誉教授、二〇一二年二月逝去)と『金融』を岩波書店から出版した際には、校正や事実関係のチェックを白川氏にお願いしたこともある。

 一九八五年、私がシカゴ大学を客員教授として訪れた際にも、白川氏の存在は語り草だった。彼は日本銀行に入行後、シカゴ大学に大学院生として留学していたのだ。

「シラカワはよくできた。学問を続けてほしかった」

 後にイスラエル銀行の総裁となるジェーコブ・フランケル教授は、そう残念そうに語っていたものだ。

 だから、私は白川氏が日銀総裁となったとき、心から喜んだ。「これで、真っ当な経済論理に即した金融政策が発動されるだろう」と考えた。長い間日銀の調査研究畑のリーダーとして、銀行内で支配的だった企画畑出身者と奮闘してきた鈴木淑夫氏は、「初めて調査畑から総裁が出た。きちんとした理論、数字の裏づけをもって、外国語で世界のリーダーと対等に話ができる総裁が出たことは画期的なことなのです」と語ってくれた。私も白川総裁誕生のとき、まさにそう思った。

しかし、実際には・・・・・・。

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