年を取るにつれて、亡くしてしまった愛する人の数は、段々と増えてゆく。
普段は、そんなことは気にせずに生きている。当たり前のように仕事をし、食事に出かけ、友達と由なしごとを語り合う。しかし、日常生活の中には、どうしても、他の誰でもなく、あの人にこそ聴いてほしい、という出来事が起きる。たとえその相手が、今はもう死んでしまっていても。亡くなった人が無性に恋しくなるのは、そういう時である。
あの人が、もし今、生きていたなら?
私たちは、時々そういう埒もないことを考える。私の場合、父がそういう存在だった。
私の父は、三十六歳の時に急死している。私はその時、一歳だったから、父のことは何も覚えていない。物心ついた時から、父がいないのは当たり前だったので、それを特に悲しいと思ったことはなかった。ただ、そんなふうに、人間はある日、突然死ぬんだと思うと、ひどく不安になった。それが、私の実存感覚の根本である。
父が生きていたら、自分に果たして、どんなことを言っただろうか?――子供の頃には、実は意外と考えないことだった。むしろ、親類が、口々に私にそう言った。しかし、その三十六歳という年齢に近づくにつれ、父の心中をあれこれ想像してみる機会は多くなった。私は、自分がその年齢を超えられないんじゃないかという気がいつもしていた。その歳か、それより前に死ぬんじゃないか? 自分が親より年上になるということを、恐らくは、うまく想像できなかったからだろう。
私はそれで、自分が父の享年になる時には、今の時代を生き、死ぬということを真っ正面から取り上げた小説を書こうと決めていた。それが、昨年二〇一一年だった。図らずも東日本大震災の年であり、そしてまた私が初めての子供に恵まれた年でもあった。