同時期、日本サッカー界ではプロ化の胎動が始まっていた。
88年、JSL内に活性化委員会が設置されている。日本のサッカー界は長く低迷していた。当時、最も重視されていたのはオリンピックだったが、68年のメキシコ大会以降、出場できていなかった。活性化委員会が始動する前年に行われたソウル大会のアジア予選では、最終予選で中国に敗れて2位となり、出場権を逃している。
マイナー競技にとってオリンピックに出られるかどうかというのは死活問題である。大会に出場すれば、少なくとも4年に1回は世の中から注目を集めることができる。当時はまだマイナー競技にすぎなかったサッカーはその機会を逸し続けていたため、JSLの集客は伸びない。観客が少なければ、試合の水準は下がる。そしてさらに観客は減るという悪循環だった。
こうした悪循環を根本から変えるにはプロ化しかなかった。ただ、あくまでJSLの中心は実業団チームであり、「プロリーグ設立」を謳うと親会社からの反発が考えられた。そのため、88年にまとめられた第二次活性化委員会の答申書には、「スペシャルリーグ」を目指すと表記されている。プロ化という文言は避けたものの、これは実質的なプロリーグである。
翌89年6月、さらに踏み込んでプロリーグ検討委員会が設置された。この年の10月には、JSLに所属していた1部と2部の全チームにプロリーグへの参加意志を問うアンケートが配布された。 里内の所属する住友金属蹴球団も参加希望の手を挙げていた。しかし、その可能性は低かった。
初年度は8つのクラブで始めることが濃厚だった。20団体が参加表明をしており、既存のクラブの戦力、実績を考えればその顔ぶれはほぼ固まっていた。2部の住友金属は他のチームに比べると明らかに見劣りがした。
よく知られているように、後にJリーグのチェアマンとなる川淵三郎は、「住金が加入できる確率は限りなくゼロに近く、99・9999パーセント駄目だ」と発言したこともあった。
それでも、住友金属の人間たちは諦めなかった。
住友金属のある茨城県鹿島郡鹿島町(現鹿嶋市)は、鹿島神宮の門前町として発達した。町の東側は太平洋に面しており、砂丘を掘り込んで作られた鹿島港がある。鹿島臨海工業地帯のための、原材料の輸入、製品の輸出に特化した工業港である。
鹿島町は、工場が立ち並び無機質な印象があった。夜になると暴走族が走り回り、ささくれだった雰囲気となる、魅力に乏しい地方都市である。
80年代半ば以降、バブル経済により、日本には浮かれた空気が流れていた。大学を卒業したのに、そんな田舎町に赴任したくない――理系の大卒学生の本音である。住友金属にとって、有能な人材を集めるためにも魅力的な街にすることは至上命題だった。そのため、プロのサッカークラブを作りたいと考えていたのだ。
Jリーグ入りのために、住友金属の人間たちは様々な人に相談して、2つの手を打った。1つは、“屋根付きのサッカー専用スタジアムの建設”である。そしてスタジアム建設を“ハード”とするならば、“ソフト”の整備も必要だった。
それがピッチ内外に影響力のある誰もが知る著名な外国人選手の招聘――そして、里内の人生を変えた2人目の男、ジーコが日本にやってきた。
(つづく)