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奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」【第6回】
僕が絶対に記憶できないこと

奥村 隆 プロフィール

 その声を受けたS太郎は、僕に視線を向けてニヤリと笑った。「オク、お前もサザンのファンなんだろ。ステージに上がれよ」と芝居っ気たっぷりに誘うと、「一緒に歌おうぜ! 最初はオクからだ。イェーイ!」とシャウトしてくれたのだ。すぐに「オーッ!」という歓声と拍手が上がり、「行け、奥村!」と声をかけてくれる男子もいた。

 僕はそれまで一度も、この即席ステージに立ったことがなかった。でも、S太郎に誘われたことが嬉しくて、「よっしゃ、歌うぞ!」と叫ぶとみんなの前に出た。

 さっそく、「ラララララララ~」と叙情的なピアノのイントロを口ずさみ始めるS太郎。その隣で大好きな『チャコの海岸物語』を歌い出そうとした、まさにそのときだった。決して忘れることのできない、あの出来事が起きた。

「なぜこんなことになってしまったのか」とパニックに

 僕はS太郎の横で、口を開けたまま、絶句してしまったのだ。なぜか、口からまったく歌詞が出てこない。

 僕は『チャコの海岸物語』を、「ザ・ベストテン」ではもちろん、ラジオでもすでに何度も聴いていた。でも、クラスメートたちの前に立ったこのとき、頭の中には、ひたすら『チャコの海岸物語』のメロディーが流れるばかり。どれだけ歌詞を思い出そうとしても、文字が一つも浮かんでこなかったのだ。

 僕は焦りでパニックに陥った。「なぜ歌詞が思い出せないんだ!?」と叫び声を上げそうになったが、かろうじて自制した。金魚のようにただ口をぱくぱくさせているのが自分でもわかった。端から見ると、ずいぶん異様な光景だっただろう。

 

 ただならぬ気配を感じたらしく、隣のS太郎が心配そうに「おい、どうしたんだよ?」と小声で聞いてきた。僕が正直に「ごめん。歌詞を忘れちゃったみたいなんだ」と答えると、心優しい彼は「そうか。新しい曲だからしょうがないな。じゃあ、俺が歌っちゃうよ」と言って、僕の代わりに声を張り上げた。

 その間、僕はS太郎の横で呆然と突っ立ったまま、ただただ驚いていた。無理もない。あんなに何度も聴いて、心から好きだと思った『チャコの海岸物語』なのに、一切の歌詞を覚えていなかったのだから。「なぜこんなことになってしまったのだろう」と、ショックで何も考えられない状態になった。

 さらに---。

 僕が歌詞を思い出せないのは『チャコの海岸物語』だけではないことがわかった。S太郎の後、他のクラスメートが近藤真彦の『ギンギラギンにさりげなく』や田原俊彦の『哀愁でいと』を歌ったが、それらの歌詞も僕はまったく覚えていなかったのだ。