『ジョーの夢 新島襄と徳富蘇峰、そして八重』を書き終えた。
新島襄は明治期に同志社英学校(現・同志社大学)を創立し、一方でプロテスタントの教えを広めた。1890(明治23)年1月23日、彼は愛弟子の徳富蘇峰、妻の八重らに見まもられ、果てなき夢を抱いたまま46歳で逝った。
新島の夢は壮大かつ真摯だった。
日本初の私立総合大学を創設したい。「良心を手腕に運用する人物」を育て、明治維新のあと早くも物質文明の毒に染まった祖国を、精神文明の力で立て直す------こんな大それたことを、京都の、ちっちゃな学校の青年校長が企てた。
「新島さん、あなたは身のほどというものを、まったくわきまえていない・・・・・・」
彼の夢を知った者は、こう諫めたに違いない。あるいは、新島は生マジメなうえ恭順、誠意あふれる人柄だけに、「大ぼらを吹いて」と笑い飛ばすこともできず、返答に困ったままウウムと唸ったかもしれない。
しかし、ここがポイントでもあるのだけれど、新島は思い込みが激しい。大胆なことでも、平気でやってのけた前歴がいくつかある。
「えっ。新島さん、あなたは幕末に国禁を破ってアメリカへ渡り、あっちの大学と神学校を卒業してるんですか!」
当の本人はそれなりに用意周到の構えで脱国したつもりだろうが、傍からみればかなり行き当たりばったりというか、ハラハラドキドキの連続という展開だった。だが、新島には強運がついて回った------アメリカ船の船長たちは彼の願いを聞き入れ、到着後はボストンを代表する慈善家で富豪の夫婦が、彼を日本の息子として遇してくれた。