第11回 小林一三(その二)
大阪を起点とする「最も有望なる電車」。
その一大事業を賑やかに宣伝した

福田 和也

 岩下は、北浜銀行の頭取に就任すると、財界に限らず、軍部の巨頭―山縣有朋、桂太郎、寺内正毅―とも深い関係を結び、衆議院議員となり、大阪を代表する政商となった。

 北浜銀行は、大胆な融資で規模を拡大したが、大正三年、二回にわたって取付にあった末、背任横領に問われて有罪判決を受けた。

 大阪一の料亭とうたわれた大和屋主人、阪口祐三郎は、大阪のために尽くしてくれた、岩下清周の名誉回復を企てたという。

 岩下の事業の中でも、生駒トンネルの開通は大事業で、当初、七十五万円の予算が三百万に膨らんだが、結局、為し遂せた。

「岩下さんと云う方は実に気の毒や。あんな人をほっとくのは、大阪人の恥や、自分の事は放っておいて、大阪に尽くした人やから、ぜひ、銅像を立ててあげたい。ひとつ協力してほしい」

 と、一三に持ちかけたという。

問答形式で編まれた日本最初のパンフレット

 一三は、趣旨には賛成だが、御遺族の意向はどうだろう、と云った。阪口が遺族にもちかけると、御厚意は嬉しいが・・・・・・という返事だった。債権者の問題などがあるのだろうな、と改めて心づいたと云う。

 阪口は、少女歌劇を最初に企画したのは、自分だと云っている。六十人位、芸者を抱えているので、彼女たちを使って舞台をやったら、と考えていたら、一三から招待が来た。先手を打たれてしまったのである。電車ばかりでなく、自分たちの領分まで手がける、一三にあらためて感心した。

 明治四十年、小林一三は、阪鶴鉄道の監査役になった。

 阪鶴鉄道は、現在のJR舞鶴線と福知山線を経営する私鉄会社だったが、明治三十九年に公布された鉄道国有法によって政府に買収される事になっていた。