しかし、じつは日本語には間接受身文と呼ばれる日本語独自の形式がある。右の例に関連して、「私は太郎に子供をいじめられて、怒った」という受身文が成立するが、最初の受身文とは異なっているのがわかるだろうか。
つまり、この受身文の主語は「私」であって、「子供」でも「太郎」でもない。「私」という主語は、「太郎が子供をいじめる」ことによって、間接的に影響を受ける人である。言い換えると、この文は「太郎が子供をいじめる」という出来事によって憤りを感じた人を主語にしている文である。この主語は子供の親であることは容易に想像がつくだろう。
このように、間接受身文は出来事による影響を表すことから、自動詞でも受身文を作ることができる。「雪に降られて、新幹線のダイヤは大幅に乱れた」では、「雪が降った」という出来事によって、新幹線のダイヤが乱れたことを表している。この点が、自動詞の受身文が存在しない他言語と大きく異なる点である。
間接受身文に見られる文法現象は、自然と共存し、そこからさまざまな影響を受けているという、日本人の世界観を表している。「自分がどうする、相手にどうされる」という人間中心の発想ではなく、人間を含めたすべての森羅万象のなかで私たちは生かされているという発想である。
「(私は)急に雨に降られて、困った」や「(私は)家の前に車を駐車されて、迷惑している」など、何気なく使っている受身文にこうした日本人の心が投影されているのである。これを、「急に雨が降って、(私は)困った」や「家の前に車が駐車されて、(私は)迷惑している」と言うと、何かしっくりこないのは、これらの文が人間を中心にした表現であるからである。
紙幅の関係上、その他のヴォイスの例を紹介できないのが残念だが、いずれも日本人の発想、ひいては世界観が、ヴォイスの形式の多くに反映されている。興味のある方は、拙著『日本人のための日本語文法入門』(講談社現代新書)を一読されたい。
アメリカの言語学者サピアとウォーフは、言語の構造はその言語の話し手の認識や思考形式を決定づけると主張した。言葉を学ぶとは、すなわち、その言語を話す人びとの世界観を学ぶということとイコールの関係になるのである。
冒頭の問いかけに戻るが、日本語の正体とは日本人の心そのものであると私は感じている。系統も類型も同じ人間が話す言葉である以上、共通する特徴はたくさんあり、その点で日本語は決して特異な言語ではない。
しかし、日本人の心を表す文法形式には日本語独自の表現が数多く存在する。日本語文法の研究を突き進めていくと、最後には日本人の心に行き着くと感じることがある。日本語研究者の醍醐味は、そのような日本人の心を反映した文法現象をひとつひとつ紐解いていくことに他ならない。
(はらさわ・いつお 静岡大学教授、日本語学)