第14回はこちらをご覧ください。
アダム・スミスは「経済学の父」と呼ばれています。またケインズが出てくるまでの経済学は、「スミス以来、全て同じ」として語られるケースも少なくありません。
そう聞くと、現在の経済学理論を生み出したのがスミス、と感じるかもしれません。
しかし、そうではありません。
たしかにアダム・スミスは、経済がどのようなメカニズムで動いているかを解明し、どうすれば拡大していくかについてひとつの「解」を示しました。また、経済が動いているメカニズムは、政治や思想といった外部の要素に影響されずに、自律的に機能しているということも発見しました。これによって経済学は「独立した学問」になったといえます。
そういう意味では、スミスが「経済学の父」です。
しかしそうはいっても、現代の「経済学」で教えられているようなグラフや数式などの分析は行われていません。スミスがまとめたのは、「理論」というより、「理念」に近いのです。
アダム・スミスの代名詞ともいえるのが「神の見えざる手」というキーワードです。これは、一言で言うと「人間各自が自分勝手に行動しても、神様が世の中をちょうどいい状態に整えてくれている」「人間一人一人には全くその気がなくても、自然に社会全体がうまくいく」という意味です。
では一体、何が「うまくいく」のか?
この連載でも第1回でも書きましたが、スミスは「神の見えざる手」というフレーズを『道徳感情論』『国富論』の中で1回ずつ使っています。逆に言えば「1回ずつしか使っていない」わけですが、社会や経済のありとあらゆる場面で「神の見えざる手」が作用していると考えたことは、文脈から明らかに読み取ることができます。
「人間社会が平和にまとまるのも『神の見えざる手』の影響」
「経済がうまく回るのも『神の見えざる手』の作用」
なのです。
では、この「神の見えざる手」は経済に対して、どのように「作用」するのでしょうか?
一番わかりやすいのは「商品の需要量と供給量」です。「神の見えざる手」がはたらくことにより、商品の需給バランスが取れるのです。言い方を変えると、「神の見えざる手」がはたらいているので、商品の需給バランスが自然に取れるのです。
たとえば、みんながほしくても、数が少なくて買えない商品があったとします。仮に、世の中に「イス」が足りなかったとしましょう。
そうすると、まずイスの値段が上がります。イス屋は「こんなにほしい人がいるんだから、多少値上げしても問題ないだろう」と考えるので、イスの値段が上がるのです。
そして、この状況を見た人たちは「イスを作ったら儲かる」と思い、そのイス産業に参入してきます。その結果、市場に供給されるイスの量が増えて、結果的に買いたい人がみんな買える状態になるわけです。
ところが、イス産業にどんどん参入してきて、商品が余り始めました。となると、今度は反対にイスの値下がりが起こります。また「もうイスを作っても儲からない。違う職業を選ぼう」といってイス産業から撤退していきます。
その結果、イスの供給量が減って、「社会全体としてちょうどいい量」になります。つまり、一部の人だけが満足するのではなく、「売りたい人と買いたい人が全員満足できる状態」に落ち着くのです。
ここで重要なのは、各自は世の中のことを考えて行動しているわけではないということです。全体のイスの需給バランスを保とうとしているのではなく、ただ単に自分が儲かるかどうかで「参入・退出」を判断しているのです。各自が自分の利益しか考えていないのに、全体が最適な結果になっているわけです。冷静に考えると、とても不思議なことです。だから「神様の仕業」「神の見えざる手」なのです。
また同様に重要なことがあります。それは、「『神の見えざる手』がはたらくのは、各自が利己心に従って自由に行動・取引できるから」ということです。規制や法律にしばられて自由な経済活動ができないと、「神の見えざる手」ははたらかないのです。
この「神の見えざる手」の理屈は、現代経済学にも引き継がれています。それが「需要・供給の法則」です。「需要・供給の法則」とは、需要曲線と供給曲線が交わったところで、価格と取引量が決まるという法則のことです。経済学を勉強する時に、最初に目にする理論です。
この理論を、言葉で説明すると、さきほどの「神の見えざる手」の話と全く一緒になります。つまり、世の中で足りない商品は値段が上がっていくと同時に供給量が増える、世の中で余っている商品は値段が下がっていくと同時に供給量が減っていく、ということです。