第4回 渋沢栄一(その一)
携わった営利事業は五百余り。
日本型資本主義の始祖に訪れた「転機」

福田 和也
渋沢栄一(1840~1931) 経営者だけではなく、思想家としても評価され、「日本資本主義の父」と称された

 幕府に対する反乱を計画していた人間が、一橋家の家来になるのは支離滅裂ではあるが、時代は途方もない乱世である。横浜焼き討ちを計画していた人間―しかも武士ではなく百姓―が、一橋家の家臣になる事も、さほどの大事とは受け取られない位に世は乱れていた。

 一橋家に召し抱えられた事で、栄一の人生行路は、急変した。

 栄一は京都に派遣され、薩摩、長州、会津といった雄藩外交の中心に放り込まれた。西郷隆盛や木戸孝允といった人々と日常的に交わった。

 慶応二年、栄一は勘定組頭となり、二十五石七人扶持、滞京手当二十一両という身分となった。

 そして徳川家茂が大阪で病没した。

 栄一は、親藩から幼君を戴いて将軍職につかせ、慶喜は京都守衛総督に踏みとどまり、大坂城を幕府から貰い受けるとともに、自ら五十万石から百万石の規模の大大名となり、天下を睥睨するという計画を献策した。

 ところが慶喜は、すんなり、次期将軍になってしまったのである。

 栄一は、憤慨した。結局、慶喜といえども、ひ弱な貴公子にすぎないのだった。けれど、この幸運児を、天は見放さなかった。

 パリ万国博覧会の際に、慶喜の弟、昭武を代表とする外交団に加わるよう、一橋家用人原市之進に命じられたのである。

 鎖国こそ解かれたものの、日本人のほぼすべてが、海外体験がない時代である。

 二十七歳で、この時代に、ヨーロッパに赴き、西洋を眺め、その社会、産業等を体験したという事は、何にも勝る、強烈な優位を得たに等しい。

「週刊現代」2012年10月6日号より