第4回 渋沢栄一(その一)
携わった営利事業は五百余り。
日本型資本主義の始祖に訪れた「転機」

福田 和也

 渋沢栄一は、一八四〇年三月、武蔵国、榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市)に生まれた。

 七歳で従兄の尾高新五郎(惇忠)から、四書五経の手解きを受けた。

 尾高は水戸学に傾倒しており、藤田東湖や会沢正志斎の論旨に心酔し、徳川幕府の外交政策を批判していた。

 栄一は、尾高から阿片戦争の顚末を記した『清英近世談』を借覧した事で、時勢を憂い、江戸に遊学した後、尊王攘夷の志士となった。海保漁村の学塾とお玉が池の千葉道場に通ったが、その目的は、同志を募り、倒幕の気運を盛り上げる事であった。

幕府への反乱を計画した後、一橋家に召し抱えられて

 井伊直弼大老が桜田門外で水戸の浪士に暗殺された時、渋沢は二十歳だった。尾高は、老中安藤対馬守が坂下門外で浪士たちに襲撃された際、一味に荷担したという嫌疑を受けたため、京都に逃れた。

 文久三年は、渋沢栄一にとって、一大エポックとも云うべき年になった。

 栄一は、尾高惇忠と従兄の渋沢喜作とともに、攘夷を企んだのである。

 計画は、さしあたって地元の高崎城を乗っ取った上で兵備を整え、鎌倉街道を通って横浜に至り、市街を焼き払った後、外国人を皆殺しにする、という物騒きわまりないものであった。

「高崎城乗っ取りだ、横浜焼き討ちだと威勢のいいことばかり考えていた時には、死ぬことをまるで芝居見物のように見ていた」(『明治を耕した話』)と、後に栄一は述懐している。

 転機は、一橋家側用人兼番頭の平岡円四郎から、一橋家への仕官を勧められた事だった。

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