『水戸黄門「漫遊」考』 著者:金 文京
~水戸黄門の印籠~

 そこでの李白は、朝廷を追放された後、玄宗からもらった金牌(金のメダル)を隠しもって、各地の政情をひそかに探索してまわり、最後に金牌を見せて、地方の役人をおそれいらせるということになっている。つまり李白は玄宗がひそかに放った隠密であったというわけである。

 これはむろんフィクションだが、李白は実際に、安禄山の乱が起きる前に、反乱軍の根拠地であった幽州(今の北京)に軍事偵察に出かけており、あながちまったくのデタラメというわけでもない。この話は『警世通言』のほか、のちの『今古奇観』という短編小説集にも入っており、どちらも江戸時代には伝わっていたので、日本で読んだ人もいたはずである。

 このほか、宋代の実在の名裁判官であった包拯についても、同じような話があり、元代の演劇や『包公案』など包拯を主人公とする裁判小説集にみえている。『包公案』はテレビドラマにもなっており、中国人にはおなじみの話である。

 しかし中国では、隠密や官吏が身分をかくして、ひそかに地方を巡察するということはあったが、金牌などを最後に出して身分を明かすといったことは実際にはなかったようである。それはあくまでもお芝居や小説などのお話のうえでのことであった。ところがお隣の韓国では、実際にそういうことが行われていた。

 朝鮮王朝時代には、暗行御史という一種の隠密監察官があった。暗行とは変装して身分をかくし、ひそかに巡行すること、御史は官吏の不正を摘発する監察官のことである。この暗行御史は、身分の証しとして馬牌という銅のメダルを隠し持っていて、地方役人の不正の証拠を押さえた後、みすぼらしい身なりから正式の官服に着替え、地方官に馬牌を示して自分の身分を明かすのである。馬牌はまた証拠隠滅を防ぐための倉庫の封印にも使われ、ハンコの役割もはたしていた。印籠に通じるものがあろう。

 この暗行御史をあつかった代表的文学作品が、韓国人ならだれでも知っているパンソリ(語り物)の『春香伝』である。『春香伝』は、妓生(芸者)の娘、成春香と知事の息子、李夢龍の恋愛物語で、最後は暗行御史となった李夢龍が、悪徳役人に妾になるよう強要され、牢屋につながれた春香を救い出して、めでたしめでたしとなる。

 明治十五年(一八八二)、『大阪朝日新聞』に、桃水野史こと半井桃水訳の『鶏林情話・春香傳』が連載された。半井桃水は、のち樋口一葉の初恋の人となった小説家である。その翻訳にも馬牌を示す場面がむろんある。その後も『春香伝』はしばしば翻訳され、芝居にもなっている。一九七三年、新宿コマ劇場での江利チエミ主演『世界の恋の物語・春香伝』では、黄門映画で助さん役をやった松方弘樹が相手役で、馬牌を首にぶらさげて現れるという演出になっていたという。

 水戸黄門漫遊の話の起源は明治の講談である。江戸時代に徳川光圀が変装して諸国を漫遊するというような話がおおっぴらに語られたはずはない。しかし明治の講談の『黄門漫遊記』では薬入れとしての印籠は出てくるが、印籠で身分を明かす趣向はない。それどころか大正、昭和期の浪曲、映画にもない。それが初めてあらわれたのは、一九六九年から始まったTBSのドラマ『水戸黄門』で、しかも印籠の場面が最初に出たのは翌七〇年放映のシリーズ第一部の第二三話であった。