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住宅顕信という、俳人がいた。
いた、と云っても、私がその存在を知ったのは、数年前の事である。
自由律の俳人で、熱狂的なファンがいる。
フォーク歌手の友川かずきは、『顕信の一撃』というCDを出しているし、フランスのガリマール社が出版した、芭蕉から現在に及ぶ俳句のアンソロジーには九句が掲載された。全五百九句のうちの九句だから、かなりの注目度と云っていいだろう。
平成十五年には、小学館から全集が出ている。
顕信は、昭和三十六年三月二十一日に生まれ、昭和六十二年二月七日に死んだ。満で二十五歳十ヵ月。
死因は急性骨髄性白血病だった。
私は昭和三十五年十月の生まれだから、顕信とは同学年ということになる。
その同学年である俳人が、典型的に壮絶な生涯を送り死んだ、という事に、何とも云えない、戸惑いを覚えてしまう。
「壮絶」という言葉をつかったが、その壮絶は、尾崎放哉や高橋鏡太郎、田尻得次郎のような「壮絶」ではない。
ない、と思う。
安定した市民生活を送っていた、送れるはずだった人が、突然に体験することになった、白血病という「壮絶」である。
岡山に生まれた顕信(本名住宅春美)は、中学卒業後、調理師学校に通いながら、ドライブインなどで働き、十九歳で岡山市役所環境事業部に採用された。父と同じ、衛生関係の仕事だったという。その頃、すでに自由律俳句を詠み出していた。
正式採用になった時、赤のトヨタ・スターレットを手に入れている。
女性関係は派手だったというが、その跡を辿るのは難しい。
その一方、二十一歳の九月から中央仏教学院の通信教育を受け、翌年七月、西本願寺で浄土真宗西本願寺派の僧侶となっている。その時、授けられた法名が「顕信」であった。
この年、一歳年上の女性と結婚した。
新婚旅行は、俳句のメッカとも云うべき松山だった。
自宅を改造して、「無量寿庵」という仏間を作っている。顕信にとっては、浄土真宗と自由律俳句は、人生のモチーフの両輪だったのだろう。
昭和五十九年二月、急性骨髄性白血病により、岡山市民病院に入院した。
市役所は、休職せざるを得なかった。
何よりも厳しかったのは、長男---角川春樹にちなんで、春樹と命名した---が生まれたにもかかわらず、妻の実家が離婚を要求したことであった。
余命いくばくもない若者に、娘を委ねるわけにはいかない、といった事なのだろうか。
春樹は、住宅家が引き取り、病院での子育てがはじまった。
退職願出して来た、枕元に朝が来ていた
合掌するその手が蚊をうつ
薬が生涯の友となるのか今朝の薬
こわした身体で夏を生きる
気の抜けたサイダーが僕の人生
子につんぼと言われていたのか
ずぶぬれて犬ころ
夜が淋しくて誰かが笑いはじめた
何もできない身体で親不孝している
若さとはこんな淋しい春なのか
言葉遣いが、やや難しいけれど、顕信の作品は、社会経験や世間知が薄いからこそ得られた、稀少な結晶のように見える。難病という境遇に置かれ、肉親をはじめとする周囲に甘えながら、悲しい我が儘を押し通していく姿が、そのまま作品に、揮発物のような悲しみを溢れさせている。作り物ではない、自然と生まれてくる句が欲しい、と語っているが、その祈念は十分に達成された、と云ってよいのだろう。その点では、反語的ではあるけれど、「充実」した人生だったと云い得るのではないだろうか。
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顕信の場合、発病のタイミング---という表現は、いささか不謹慎ではあるが---も悪かった。
骨髄バンクがはじまったのが平成四年。顕信が発病した昭和五十九年には、まだ骨髄移植等の治療法はなく、抗がん剤の投与が主流だった。
あと数年、発症が遅ければ、生きながらえる事ができたかもしれない、そういう微妙な時期だったのである。
とはいえ、救いになるのは、顕信の周りには、彼が「句友」と呼ぶ、さまざまな年齢の仲間がいて、彼を慮り、勇気づけたことだ。
句集『未完成』の作品解説を書いた池畑秀一氏は、「僕が死んだら、小さくてもいい、ひとつお願いします」と、顕信が願ったと書いている。顕信と一度しか会った事がない田中信一氏が活躍した。
「田中氏はその後、年一度の『層雲全国大会』の宴会の席で菓子箱をまわし『顕信句碑のためのカンパ』をして何度も私のところまで届けてくれた。『宴会の席なんかでそんなことをしないで欲しい』ときつく言ったものの、その心が嬉しかった。一緒にどこに句碑を建てようかと岡山市のあちこち見て回ったこともあった。田中氏にせきたてられなかったら、七回忌に句碑が間に合っていたかどうかわからない。困った男ではあるが、その一途さに何度も心打たれた。先日久しぶりに田中氏に会ったとき、聞いたのだが、電話で田中氏が顕信にどの句を句碑にしようかと尋ねたところ、長い沈黙の後、顕信が『僕にはこれだという句がまだないのですよ。この一句というものが欲しい』と言ったという。(中略)
/昭和六十一年十一月になってから顕信の病状が急に悪化し、あまり長く話が聞けないようになった。私は一時的に悪化しているが、またそのうちに回復するのだろうと思っていた。このころは私もかなり句作に熱中していたので、顕信が私の句に対してどんな反応をするか楽しみにしていたのである。見舞いに行く前に電話をかけると、家族の人に『今日は調子が悪いので』と何度か断られた。/十二月二十四日。連絡せずに病室を訪ねてみた。一段と病状が悪化していたので驚いた。痛み止めを何本打っても効かないといいながらもしばらく話をしてくれた。もう死が間近に迫っていることを静かに語った。覚悟をきめているようだった」(『未完成―住宅顕信句集』)
最期の言葉は、「おかあちゃん」だった。
「週刊現代」2012年8月18・25日号より