その放浪人生に流行作家も惚れた、
異端の「自由律俳人」
近代の俳人Vol.6

vol.5はこちらをご覧ください。

 少女小説で一世を風靡した、昭和を代表する流行作家、吉屋信子---何しろ、あの林芙美子が、吉屋のような暮らしがしたいというので、鎌倉の吉屋宅にそっくりの家を建てたというエピソードが残っている―は、大戦下ある(男)の存在を識り、強く惹かれたという。

 「わたくしがある(男)の生涯を知ったのは、あの戦中、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死し、アッツ島守備隊が全滅の悲報のあった年の一月下旬だった。/もうその頃わたくしたちは時々空襲の警戒サイレンを聞き、庭先に気休めの待避壕を掘らねばならなかった。その不安の時代に、わたくしはその(男)の生涯を思い出すと、いっとき戦争の恐怖もふつっと忘れてボンヤリすることがあった。それほど私に強烈な印象を与えたその一人の(男の一生)は忘れがたく、いつも頭のどこかにあった。/いつかは―戦争が終っていのちつつがなく幸いにふたたびものが書ける時代が来たら、この男の一生を描いて見たいと、私は暗幕をめぐらした戦中の陰気な夜の灯の下で創作ノートにその男の生涯を辿った履歴を年譜風に心おぼえに書き止めていた」(「底のぬけた柄杓」)

禁酒の誓約を守れずに解雇されて、思ったこと

 ここで吉屋が、(男)と呼んでいるのが、尾崎放哉である。

 今日、放哉は、種田山頭火と並び称され、自由律俳句の旗手として知られている。だが、吉屋が注目した大戦下の頃には、師匠筋の荻原井泉水一派をのぞけば、さしたる評価は受けてはいなかった。

 吉屋は、戦時下、俳句に開眼した。

尾崎放哉 放哉(1885~1926)は、晩年の8ヵ月を小豆島の西光寺奥の院で寺男として暮らした

 最初、久米正雄の句会に参加し、ついで高浜虚子に師事している。

 人気作家が虚子門に連なるのは、ごく当然のように思われる。しかし吉屋は、花鳥諷詠をモットーとし定型を宗とする虚子門に連なりながら、思い焦がれているのは『ホトトギス』の対極に位置する、異端の自由律俳人なのである。

 尾崎放哉は大正十五年四月七日に小豆島で死んでいる。その生前に、彼の存在を認めていた者はごくわずかであった。死後十数年にして、ようやく一部に識られるようになり、吉屋信子のような、鋭敏な感覚の持ち主が注目するようになったのだろう。

 放哉と山頭火は、自由律俳人として並び称されている。また、放浪の人生を送った人物としても、二人はよく識られている。

 けれども、山頭火と放哉の放浪は、まったく質が違うものである。

 山頭火は、いわば、放浪のプロなのだ。

 彼は、タフだ。

 さまざまな手段を弄しながら、歩きつづけ、生き延びる。行乞に推参するとともに、熊本や松山に草庵を営み、あるいは店舗を構えて自らの書画を商った事もある。いずれにしろ、一所に留まる事が出来ないとしても、食いつなぐだけの手腕は備えていた。

 放哉は、まったくもってタフではなかった。

 明治十八年一月二十日、鳥取県吉方町に放哉は生まれた。

 父の信三は、鳥取地方裁判所の書記だった。

 鳥取第一中学に進学。十五歳で『ホトトギス』に投句し、一句掲載されている。

 十七歳で上京し、第一高等学校法科に入学。同期に斎藤茂吉と中勘助がいた。そして、一級上に、自由律俳句のパイオニアである荻原井泉水が在学していた。

 明治三十八年に東京帝国大学法学部に入学。

 この前後から、飲酒に耽るようになり、少しずつアルコール中毒の兆候が見られるようになっていった。

 卒業後、東洋生命保険会社(現朝日生命)に就職、翌年、結婚した。それから暫くの人生行路はエリートそのものであったが、大正十年、社を退いた。処遇への不満―契約課長を免じられた―からであるという。

 翌年、朝鮮火災海上保険の支配人として京城に赴くが、翌年解雇される。禁酒の誓約を守れなかったのが原因であった。

 ここから放哉の人生は急転回する。

 帰国した後、妻と別居し、西田天香が主宰する修養団体、一燈園で托鉢生活にはいる。
神戸の須磨寺、福井小浜の常高寺と移り歩いた後、井泉水の紹介で小豆島に赴き、西光寺奥の院、南郷庵に入り、お遍路さんを遇する毎日を送る。大正十五年四月、咽喉結核で死去した。四十一歳だった。

 入れものが無い両手で受ける
咳をしても一人
なんと丸い月が出たよ窓
春の山のうしろから烟が出だした
墓のうらに廻る

 その足取りだけを見ていると、放哉は小豆島に死ぬために赴いたように見えるが、はたしてそうだったのだろうか。

 お遍路さんを迎える庵の明け暮れのなかで、新しく、強かに、自分を建て直してみせる、生き延びてやろう、というような心持ちも、抱いていたのではないだろうか。

 「今暫くしますれば、庵と私と云ふものとが、ピタリと一つになり切つてしまふ時が必ず参ることゝ信じて居ります。只今は正に晩秋の庵・・・誠によい時節であります。毎朝五時頃、まだウス暗いうちから一人で起き出して来て・・・庵にはたつた一つ電灯がついて居まして、之が毎朝六時頃迄は灯つて居ります・・・東側の小さい窓と、西側の障子五枚とをカラリとあけてしまつて、仏間と、八畳と、台所とを掃き出します、そしてお光りをあげて西側の小さい庭の例の大松の下を掃くのです。この頃になると電気が消えてしまひまして、東の小窓を通して見える島の連山が、旭日の登る準備を始めて居ります、其の雲の色の美くしさ、未だ町の方は実に静かなもので、何もかも寝込んで居るらしい、只海岸の方で時折漁師の声がきこえてくる位なもの---」(『入庵雑記』「風」)

 この、落ち着いた、ある余裕をもっての、微細な事物、天文の変容にたいする、旺盛な関心と濃やかな観察は、けして自棄の人になしえないものではないだろうか。

 いずれにしろ、放哉は生き残った。

 山頭火のようにタフではなかったけれど、その作品は、人口に膾炙し、今も新しい読者を獲得しつづけている。

「週刊現代」2012年8月4日号より

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