俳句を作りながら写真を撮る---
「カメラマニア」がとらえた風景とは
近代の俳人Vol.5

vol.4はこちらをご覧ください。

 もう、何年になるだろう。

 『en-taxi』に保田與重郎について書いていただくために、大津の義仲寺に柳美里さんを御案内した。

 義仲寺は、木曽義仲が敗亡した後、その愛妾巴御前が墓所近くに営んだ草庵が発祥とされている。

 鎌倉時代後期の古文書には、木曽寺もしくは義仲寺についての記述があるという。戦国時代に荒廃したが、佐々木氏によって再興された。

 義仲寺は、松尾芭蕉一門と深い関係があった。芭蕉はたびたび義仲寺に滞在し、句会を催している。

 そうした事情により生前からの遺志によって、芭蕉の墓は、義仲寺に設けられたのである。

 大戦後、荒廃し、住宅地として切り売りされかけた義仲寺の再興を保田與重郎は企てた。

 右翼の大物であり、占領下の未解決事件に関与したとされる三浦義一に再建費用を集めて貰ったのである。三浦は歌人としても高名であったが、三浦により俳諧の元祖の墓が保全された事は、少し皮肉でもあり、面白くもある。

戦争と結核の両方を経験したからこそ

 訪れた時、やはり吟行の方たちが境内に溢れていた。面白かったのは、俳句を作りながら、誰もがカメラ---それも、かなり凝った---を持ち、撮影している事だった。

 作句の材料にするのか、と思っていたが違うと云う。俳句と写真を組み合わせるのが、トレンド(?)らしい。

 そう云われてみて、森村誠一さんから、写真にキャプション風に俳句を添えた本を戴いた事を思いだした。

 俳人で、先駆的に写真を意識し、活用したのは石田波郷だろう。

 結核で清瀬のサナトリウムに入院中、はじめてカメラに触れた波郷は、退院した時には「秋晴や肩にローライ手にライカ」という句を詠むほどのマニアになっていた。

 昭和三十二年三月から一年、波郷は読売新聞の江東版に、『江東歳時記』を連載している。

 連載は江東を中心とするさまざまな地域を波郷が訪れ、短いエッセイ(約七百字前後)を書き、俳句を作り、そして写真を撮る、という体裁であった(ただし、掲載された写真はすべて波郷のものだったわけではなく、新聞社のカメラマンが撮ったものが掲載される事もあったという。フィルムの性能が低かった時代なので、新聞社としては当然の処置だったろう。また、村上巌による、イラストの回もいくつかあった)。

 たとえば千住三丁目の探訪。偶然にみつけた千住の車鍛冶を訪ね、自動車が増えていく一方、リヤカーを造っている車鍛冶は減少し、屑屋やおでん屋、焼き鳥屋などからの注文しかない事が記されている。

 波郷は、自宅の隣の神社に塵芥車がいつもごみを山積みにしている事に憤慨していたが、車輪の木部の型取りや、鉄輪のねりつけ、欅の胴に十六本の樫の矢木の取り付け、などの工程を識った後には、「しげしげとその車をながめる」と記し、かく詠んだ。

秋風や火床やすめたる車鍛冶

石田波郷清新な青春俳句で注目された波郷(1913~69)は、後に「闘病俳句」の名手になった

 石田波郷は、大正二年三月に松山市西垣生町に生まれた。

 松山中学に入学し、俳句をはじめた。その道へ導いたのが、同級生で、後に俳優として昭和の銀幕を彩った大友柳太朗だったというのが面白い。

 中学卒業後、農業に従事する傍ら、水原秋桜子の門下に入り、昭和七年上京した。定住所を持たず、東京市が経営していた深川一泊所や友人の家を泊まり歩き、結局、秋桜子が主宰する『馬酔木』の事務を手伝うようになり、秋桜子門下の俊英として、頭角を現した。

 第二次大戦がはじまると、京大俳句事件のあおりで『馬酔木』も弾圧を受け、辞職を迫られた。

バスを待ち大路の春をうたがはず
あえかなる薔薇撰りをれば春の雷
百合うつり雷とゞろけり熱帯魚
釣堀に水輪あふれぬ花の雨
菖蒲湯の湯が顎打てり妻入りきて

 十八年九月、千葉佐倉連隊に召集を受け、軍鳩取扱兵として華北に配属された。

 配属先で週番の見習士官に突然呼び出された。丁重に椅子を勧められ、茶を供された。その士官は、俳誌『雲母』の同人で、見習士官のなかでは、四人が俳人だったという。前線で結核が発症し、天津に後送された時には、看護婦が山崎喜好の『鬼貫論』を貸してくれた。

 前回、鈴木六林男の壮絶な戦争体験を紹介した。波郷は、召集されたものの、激しい戦闘は体験しなかったが、前線で病を得て、療養生活を余儀なくされた。

 戦前の男子の死亡理由の一位、二位を占めた戦争と結核の双方を、波郷は経験したことになる。

 二十二年には病状が、かなり進み、医師から成形手術を勧められ、翌年、清瀬村東京療養所に入所した。

看護婦の雀斑は褪せず日食す
栗咲く香血を喀く前もその後も
梅雨の夜の痰壺さがす手をのばす

 三次に及ぶ成形手術を受けて、二十五年、ようやく療養所から出た。

 「牛山一庭人氏の後になつての話によると、或日私を見舞ふと、私は昼寝をしてゐたが、蒼い顔は眼窩は窪み顴骨は飛び出し、口を半ばあけ汗ばんでをり、それはもう死相といつてよく凝視するに耐へなかつたさうである。その頃十五年来の契友石橋辰之助が阿佐谷の病院で急性の肺結核で死んだ。然し私はつひに夏百日を堪へ得たのであつた。『たはやすく過ぎしにあらず夏百日』といふ一句は、俳句にはなつてゐないけれども、私の感慨をこめたつぶやきであつた」(「石田波郷全集第八巻 肺の中のピンポン球」)

 流浪、敗亡の詩人という匂いを残している、一つの典型という事になるのだろうか。

「週刊現代」2012年7月21・28日号より

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