週現スペシャル 名医が明かす「忘れられない患者たち」

「私たちの〝恩師〟は病気と闘う 名も無き患者たちでした」
元国立がんセンター中央病院長、順天堂大医学部教授、肝臓移植のカリスマほか

週刊現代 プロフィール

 本人に本当の病状を伝えないこと—それは、家族の望みでもあった。

 順調に見えていたのもつかの間、半年後、肺に転移が見つかる。脳の硬膜にもがんが転移し、彼女は銚子にある別の病院に入院した。

「見舞いにいったとき、抗がん剤治療をしていたさっちゃんは辛そうにしていました。おそらく、自分でも悪性腫瘍だということはわかっていたのだと思います。けれど、彼女は最後まで弱音を吐くことはありませんでした。私は、最後まで嘘をつき続けたんです」

 野球場が見える病室で、さっちゃんは息を引き取った。手術から約1年が経っていた。

「今なら『無謀な手術』と言われるかもしれません。でも、手術をしたから、さっちゃんに元気な半年間を作ってあげることができた。それまで、心臓外科というのは『命を助ける科』だと思っていたんです。でも、それだけじゃない、少しでも有意義な時間を作ってあげることも、とても大切なことなんだと知りました。『届かない命』ではあったけれど、さっちゃんは僕がそう考えるようになったきっかけを、最初にくれた患者さんでした」

 名医と呼ばれる医師ほど、日々真剣に患者と向き合い、そこから学ぶこと、気づかされることが多いと口にする。天野教授は、さっちゃんの死の直後、もうひとつの「届かない命」に直面することになる。自身の父親である甲子男さんがその人だ。

「さっちゃんが亡くなったあと、同じ年の秋に私の父は息を引き取りました。心臓弁膜症で生体弁治療を受け、一時は健康を取り戻していたのですが、8年で症状が再発、私が勤務していた病院で再手術を受けました。そのときは私も助手として手術を手伝いましたが、そのとき縫合した人工弁の糸が緩み、病状が悪化。結局、弁は適合せず、3年後に再々手術を受けましたが、1週間後に亡くなりました。当時の人工弁は、ちゃんとした手術をしても外れることが起こりえたのですが、父の死によって手術は絶対に妥協してはいけないことを思い知らされました。

 父に対しても、私は嘘をつきました。手術がおわったあと『これはダメだ』と思ったけど、自分の口から弱音なんて吐けないと見栄を張っていた。『もう少し症状が安定するまで寝ていようね』といって鎮静剤を増やしました。父は『うん』とうなずいて、それが最後の会話になりました。結局、当時の医学では届かなかったわけですが、届かなかったからこそいまの自分があるし、父にも『世の中に少しは貢献したな』と評価してもらえているような気がします」

 患者を診るだけではなく、患者の家族にも気を配り、できるだけ負担を軽くすることも医師の使命。それを天野教授に教えてくれたのも、患者だった。

 心臓病で手術を受けた夫を見舞うために、患者の妻は、最も寒さが厳しい2月の寒中、毎日毎日病室を訪れた。雪の降る日もベッドの脇に座って夫の手をさすり、声をかけていた。