時代が恐れるほど斬新な作風だった、
新興俳句の旗手。彼の「禍々しさ」
近代の俳人Vol.3

vol.2はこちらをご覧ください。

 二回にわたって子規、虚子と近代俳句の大立て者について書いてきた。

 本来ならば、『ホトトギス』の諸家について書き継ぐのが正統的なのだろうが、敢えて異端の---というほどでもないかもしれないが---俳人、西東三鬼をとりあげたい。

 異端、と云ったものの、三鬼はそれなりにポピュラーな俳人である。

 一九七七年にはNHKで、その生涯を描いたドラマ『冬の桃』---小林桂樹が三鬼を演じた---全七回が深町幸男演出、早坂暁脚本で放映されているし、その名前を冠した西東三鬼賞(選考委員に弟子筋の鈴木六林男、三橋敏雄が名を連ねていた)も二十回を重ねている。講談社文芸文庫で『神戸・続神戸・俳愚伝』が生きているし、絶版ではあるが朝日文庫『現代俳句の世界9 西東三鬼集』も出ていた。

 それでも、三鬼がある種の禍々しさを帯びているのは、その生涯の軌跡と作品のためだろう。

「あの娘だけは、きれいなままで死なした」

 明治三十三年津山に生まれた。父は三鬼が五歳の時死去し、爾後長兄に養われた。大正十四年、日本歯科医専を卒業、兄が在勤していたシンガポールで開業した。日中関係が逼迫し華僑による日貨排斥のあおりを受けて帰国し、大森で歯科医院を開業した後、神田共立病院歯科部長になり、患者に勧められて俳句をはじめた。三十三歳の時である。晩学であったが、才能はめざましく新興俳句の旗手とみなされるようになった。

おそるべき君等の乳房夏来る
露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す
雪国や女を買はず菓子買はず
水枕ガバリと寒い海がある
ハルポマルクス神の糞より生まれたり
黒人の掌の桃色にクリスマス
びびびびと死にゆく大蛾ジヤズ起る
広島や卵食ふ時口ひらく

 三鬼の句は斬新だった。

 だが時代はその新しさを許容しなかった。

 昭和十五年、三鬼とその周囲の前衛的な俳人たちは、治安維持法違反の廉で検挙された。

 検挙は言葉尻を捉えて、左翼思想伝播に寄与したという荒唐無稽な罪状をでっちあげた。けれど三鬼にとってやりきれなかったのは、特高に密告したのは三鬼だと誤解された事だった。

 三鬼は、以降、俳句を作らない事を条件に起訴猶予となり、仲間たちと別れて、単身、神戸に赴いた。その時の見聞を記したエッセイ『神戸』こそを三鬼の最高傑作とすべきかも知れない。

「私は運命論者ではないが、戦争をしている国の人間は、誰でも少しずつ神秘的な精神状態になるのではあるまいか。波子という女との邂逅は、どうも何者かが彼女をぶら下げて来て、私の前にドサリと落したように思われてならないのだ。/しかし、苦労したといっても、東京の過去から逃げ出した私は、戦時とも思えない神戸の、コスモポリタンが沈澱しているホテルに落ちつき、全身で何か新しい人生の出来事を期待していたのだから、女と遭ってからの苦労は、自ら買って出たものにちがいなかった。私は一夜おせっかいの種を播いたばかりに、その後の四年間、雑草のような苦労を刈り取らねばならなかった」(「波子という女」)

西東三鬼 三鬼(1900~62・写真左)と、深く親交していた愛媛の俳人・石田波郷(同右)

 神戸で三鬼は、国民服とも、ゲートルとも無縁の暮らしをしていた。彼を巡る女性たちも、誰一人とてモンペを穿く者はいなかった。

 石田波郷、山本健吉、東京三、永田耕衣、安東次男、平畑静塔、橋本多佳子ら俳人たちが、神戸の三鬼のもとを訪れたという。

 昭和二十三年、三鬼は神戸を脱出し、紆余曲折をへて大阪女子医大に勤務した。

 三十一年に大学を辞し、角川書店『俳句』編集長に就任するため、東京に戻ったが、一年ほどで辞任。昭和三十七年、胃癌で死んだ。六十一歳だった。

 床屋から俳人に転身した石川桂郎は---理髪店の跡取り息子だったが、戦時中、職人たちが次々と応召したため閉店を余儀なくされた---俳句雑誌の編集などに従事した後、『俳人風狂列伝』で、第二十五回読売文学賞を受賞した。

 同書は、タイトルに謳われている如く、サナトリウムから追い出されないように重症患者の痰を痰壺からすすった高橋鏡太郎、愛娘の遺骨を、少しずつ囓って最後に小さな欠片しか残さなかった岡本癖三酔。神奈川県立第一中学校(現希望ヶ丘高校)、横浜高等工業(現横浜国立大)をともに首席で卒業したが、エリート意識が強すぎたために定職につく事が出来ず、窃盗で刑務所に入り、出所後、山谷のドヤ街ですごした田尻得次郎、それに種田山頭火、尾崎放哉が名前を連ね、その最後、真打格として三鬼が名前を連ねている。

 京橋の川っ縁にあったバー『峠』における三鬼の振る舞いを石川は、以下のようにスケッチしている。

「看板娘の清楚な美少女がいて、三鬼の愛人だった。三鬼は何種類かの洋酒を自費でその娘に仕入れさせ、酒棚に並べると、自分の酒をバー並みの金を払って飲むのである。(中略)後年私に『あの娘だけは、きれいなままで死なした』と述べているが、何十着の服、靴もいちいち服にそろえてやり、よく二人で銀座を歩いているのを見かけた。資生堂の二階で食事をしていると、彼女を連れた三鬼が階下のテーブルにつく、彼が立ってうしろから椅子を深く彼女のため寄せてやる。西洋映画などでよく見かける、同伴者へのエチケットだが三鬼がやると自然だった」(「地上に墜ちたゼウス」)

 自分で買ってきたウィスキーを、バーで相応の金銭を払って呑むという面倒さ。何十枚という服とそれぞれに似合う靴を買ってやること。椅子を深く寄せてやるエチケットは、確かに板についたものだったろうし、洗練されてもいただろう。とはいえ、やはり気になってしまうのは、「あの娘だけは、きれいなままで死なした」という言葉である。「きれいなまま」とは、肉体関係を持たなかったということだろうか。しかし、それでも「死なした」という台詞の意味する処は何なのだろう。

 まさか三鬼が殺したという事ではないだろうが・・・。

「週刊現代」2012年7月7日号より

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