正岡子規が開いた俳句の近代。
日本独自の「文学」、その驚くべき深み
近代の俳人Vol.1

 俳句について、多少とも真面目に考えるようになったのは、古い事ではない。江藤淳先生が、俳句の刷新に情熱を抱かれていたが---俳諧は軽みの味わいを取り戻すべきだ、というのが先生の御意見だった---結果として先生にはそれを果たすだけの命数が、残念ながらなかった。

 それから暫くして、角川春樹氏が娑婆に戻って来られた。大変、お世話になった方なので、お迎えの会をしようということになって、澤口知之シェフや佐藤和歌子さん、伊藤寸君などを招いて浅草で句会を催した。催したと云うと手馴れているようだが、まったく出処勝負だったのだけれど、角川さんは喜んでくださった。それぞれの作品を批評していただき、また句を直していただいて---まるで、手品のように、句の面目が一新されるのだ---実に面白く、それから暫く編集同人を務めている『en-taxi』で、角川さん主宰の句会を連載させていただいた。

 句境はまったく進歩しなかったけれど、俳句という、コンパクトな「文学」の、深さ、大きさには驚かされるばかりであった。

『抱擁家族』で識られる作家小島信夫は、夫婦でシルクロードを旅行した折の体験を記している。

「俳句人口は一千万だというふうにいわれている。何年か前に私はシルクロードのツアーに出かけた。西安から汽車に乗ったりバスに乗ったり飛行機に乗ったりすると、私夫婦のほかは殆んどの人が俳句や短歌を作り始める。旅仲間はすべて中高年であったことを勘定に入れなくてはならないが、それにしてもそうであった。帰国すると、それらの旅の収穫はコピイして送られてきた。作品の内容はともかくとして、私は俳句人口一千万ということを如実に知った。/私は寺田寅彦が、その、俳句についてのまとまったエッセイの中で、現在、日本の文芸で外国人に対して、これこそが日本独自のものだと胸を張っていえるものは、俳句ぐらいのものだ、といっているのをおぼえている」(『原石鼎 二百二十年めの風雅』)

「明日から毎日書け。死ぬまで続けろ」

 小島信夫は、ひたすら散文的であろうとした小説家であり、心境的なもの、隠者的なるものといった、風流の匂いのする表現や振る舞いから距離を置き続けてきた。その小島が、シルクロードまでやってきて、吟行者の集団に囲繞されてしまったというのは、ちょっと気の毒な気もしないではないが、可笑しい。しかしまた、遥か西域の砂漠にまで足をのばして、一つでも佳句を得たいという吟行者の思いは、やはり文学の初心と云うべきだろう。

子規庵 正岡子規(1867~1902)は、子規庵(東京・台東区)を書斎かつ、句会の場とした

 俳句の近代は、正岡子規によって開かれた。

 とはいえ、子規は、俳人として生きていくという積りは、もっていなかった。明治の青年らしく立身を望んでいたし---実際、帝大を中退しなければ、官吏か財界人になっていたかもしれない---、文学を志した後も、幸田露伴のような小説家になりたいと願い---露伴に倣った『月の都』という長編小説を書いたが、評判は呼ばなかった---、健康上、経済上の問題もあって、じりじりと俳句を生涯の仕事と認めるにいたった。

 よく知られているように子規は「写生」を文芸の根本に置いた。使いつくされた、月並みのマンネリズムを脱して、眼前にある、事物を凝視する、日本的リアリズムとしての「写生」。

 俳句のみならず、和歌から小説に至るまでが、今日まで、子規が開いた地平において書き続けられてきた事は否定できない。その点で、子規は近代日本文学の出発点をも画している。

余命いくばくかある夜短し
犬が来て水のむ音の夜寒哉
一群の鮎眼を過ぎぬ水の色
鶏頭の黒きにそそぐ時雨かな
和歌に痩せ俳句に痩せぬ夏男
芭蕉忌や我俳諧の奈良茶飯

  絶筆三句
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひのへちまの水も取らざりき

 子規が、『日本』の陸羯南に愛されたというエピソードは司馬遼太郎により広められた。実際、子規は、陸の家のすぐそばに住んでいたこともあった。けれど直接に一番、世話になったのは、古島一雄であった。古島は旧膳所藩士、杉浦重剛の薫陶を受け、反欧化を旗印にした『日本』に身を投じた人である。

「僕が『日本』に復帰した時、子規は毎日『病牀六尺』を書いていて、それが呼びものになっていた。それをみて僕は、『可哀想に死に瀕しておる病人に毎日書かせるなんて残酷だ。こんなことをさせてはいかん、当分休養させろ』と指図して、一日載せずに置いた。そうすると翌日『編集局御中』と書いた手紙を持って正岡の特使が来た。開けてみると、『今日新聞を見ると自分の『病牀六尺』が載っていない。自分の今日の境遇は、朝から晩まで痛みとおしの身体にモルヒネを注射してわずかに快くなった時に『病牀六尺』を書く。そして翌日それが紙面に載っているのを見るのが何よりの楽しみなのだ。ところが、今朝新聞を開いて見るとそれが載ってない。実に情なかった。俺はこれほど弱くなったか。どうか一行でも半行でもいいから載せてくれ』ということが書いてあった。こっちは健康体で、病人の心理がわからん。病人だから慰めてやろうと思ったら、その心遣いはかえってあべこべだったのである。それからすぐ僕は飛んで行って、『長い間御無沙汰しているが、そんな境遇におるとは知らなかった。明日から毎日書け。死ぬまで続けろ。どんなことでもして載せる』『いや、頼む、頼む』と涙を流していた」(『一老政治家の回想』)

 古島は『日本』、『九州日報』、『万朝報』と渡り歩いた後、犬養毅を識るに至って終生彼につくし、犬養をしてついに総理たらしめた。

 戦後、鳩山一郎がGHQに追放された後、自由党総裁に擬された。古島は辞退し、吉田茂を総裁候補として推薦した。官僚臭の強かった吉田を推したことで戦後保守政治の基盤は築かれた。議員として長年議席をもちながら、数ヵ月逓信政務次官を務めただけで、在野の党人政治家としての姿勢を貫いた。

「週刊現代」2012年6月23日号より

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