30すぎてから医者を志した人たちの「熱き物語」

人生一度きりだから、人の役に立ちたい
週刊現代 プロフィール

47歳で医師になった

宮城県石巻市の精神科医・木村勤医師(62歳)も、もともとは埼玉県の小学校の教師だった。子供たちに分かりやすく話し、どんな声にも耳を傾けていた教員時代の経験は、今も患者と向き合う時に大いに役立っていると言う。

「実は、子供の頃の夢は医者だったんです。小学生の時に読んだアルベルト・シュヴァイツァーの伝記に感動し、いつか自分もたくさんの命を守る医者になりたいと思っていました」

だが、医学部受験に失敗。経済的な理由で医学部は諦め、新聞配達をしながら明治学院大学社会学部を卒業し、小学校教師になった。

「38歳の時、校長から教頭選考試験を受験するよう勧められたんですが、私は管理職よりも子供と直接触れ合う教員のままでいたかった。

でも、いずれそれも叶わなくなると考えた時、医者になるというかつての夢が蘇ってきたのです。教頭受験の勉強に割く時間があるなら、医学部受験の勉強をしようと決心しました」

平日は学校があるので、勉強は3時間。休日は8時間と決め、飲み会に参加しても帰宅後の勉強は欠かさなかった。出張中も列車内やホテルで勉強し、通勤途中は車内で自分が吹き込んだ公式、例文などのテープを聴いて暗記に励んだ。

3年後、宮崎医科大学(現・宮崎大学医学部)に合格。47歳で念願の医師になり、12年間五島列島の奈留病院に勤務した。離島での僻地医療を志したのは、シュヴァイツァー博士の影響だった。

「59歳の時、石巻市の恵愛病院に招かれ、院長に就任しました。その2年後、東日本大震災が起こったんです。

警報もないまま津波に襲われて……突然のことで、2階に避難させられなかった70~80代の患者さん24名を、目の前で亡くしました。

公立病院ではないため、援助は後回しになり、3日間食事がゼリー1個と1杯のジュースか水のみという時もあった。それでもスタッフ全員がかけずり回って、誰一人低体温症等で亡くなることなく転院させることができました」

病院は全壊し、再建も模索したが、断念。今は鹿島記念病院で院長を務める。

「一時は石巻を離れることも考えました。でも、私を必要としてくれる人がいる限り、この地に留まって働こうと思い直しました。それが残された自分の使命であり、義務なのです。

これからも、被災地に寄り添い続ける医師でありたいと思っています」

音楽の道と両立

三重大学大学院医学系研究科で准教授として医療と研究を続けている神経内科医の佐藤正之医師(48歳)も、高校音楽教師から医師に転じたという変わった経歴の持ち主だ。

音楽好きの父親の影響でクラシックレコードを聴いて育った佐藤医師は、音楽に携わる仕事に就きたいと大阪府の相愛大学音楽学部に進学した。