vol.7はこちらをご覧ください。
近代の女優を書き継いできて、最後を締めくくるのが、高峰秀子というのは、いささか座りが悪いのかもしれない。
舞台の三大女優という云い方がかつてあり、それは水谷八重子、杉村春子、山田五十鈴であったと云う。そしてまた、映画の二大女優というのは田中絹代と山田五十鈴だそうな。
ならば、締めくくりは山田五十鈴とするのが収まりがいいのかもしれない。花柳章太郎との関わりなど、興味深い話柄はいくらでもあるし、評伝も何冊か出ている。とはいえ、御存命である事を考えると、こうした連載でとりあげるのは、いささか躊躇せざるをえない。
では、なぜ高峰秀子なのか、と云われればそれは、ただ、好きだからという程度の事になってしまうのだが。
とはいえ、私の年代だと、子供の頃から彼女の存在は認識していたものの、上の世代が抱いていたような、強い憧憬、とでも云わざるをえないものは、もってはいない。
もちろん、成瀬巳喜男作品---『浮雲』、『放浪記』、『流れる』、『女が階段を上る時』---を中心とする映画がすでにあり、そこで鮮やかに彼女の存在を確認してはいたのだけれども。
とはいえ、それ以前に大きかったのが、彼女の社会的な存在感、というようなものだったと思う。
たとえば、こういう話がある。
川口松太郎によれば、一時期、首相候補に擬せられていた保守政治家の河野一郎は、かなり高峰に御執心だったそうな。
「亡くなった政治家の河野一郎が、/『高峰秀子は女優には惜しい女だね、あれが政治家だったら文部大臣がやれる、大臣が無理なら文化庁長官でもいい、やらせて見たいな』/と、真顔でいったことがある。彼は型破りの政治家だったから、本気でそう思ったのかも知れない。市川崑の監督したオリンピック映画のカット問題で、秀子とやり合ったあとのことで、彼女の才女ぶりに驚いたのだが、そのあとがいけない。河野は親友の永田雅一に、/『高峰秀子に惚れてしまったが口説いてもいいか』/といってしまった。永田は驚いて、/『馬鹿なことをいうな、高峰には松山善三という立派な亭主がいるんだ』/とたしなめたので、河野は首をすくめたというのだが、真偽不明の噂ばなしにしても河野が秀子を見込んだのは、さすがだと思っている」(『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬこと』川口松太郎)
この件については、多少の説明が必要だと思う。
東京オリンピックに際して、河野一郎は担当大臣に就任し、首都高速から競技施設までの建設を担っただけでなく、選手、スタッフの福利、厚生まで万端を担った。
オリンピックの記録映画に抜擢されたのは若き市川崑だった。複数のカメラを使って、選手の内面を描写するような、従来の記録映画と一線を画す作品を作りあげた。
けれども河野一郎は、演出過多で記録性に欠けると批判し、二十分余りの短縮を要求したのである。
この件で高峰が市川を擁護して、河野を厳しく批判したのだが、応酬を続けるうちに、河野は高峰に惚れ込んでしまったのである。
経緯はともかくとして、河野にしろ、永田にしろ、川口にしても、人生の裏街道のそのまた裏道を歩き尽くして、手作りで自らを創造した豪傑たちが、揃いも揃って、高峰に入れ込んでいるというのが可笑しい。
可笑しい、とは思うものの、しかし、それはまた当然のことでもあるだろう。
高峰秀子もまた、人生の裏道を、自らの二本の脚を懸命に動かして歩きぬいた人間なのだから。
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とはいえ実の処を云えば、私にとってもっとも直接的に出会ったのは、高峰秀子の文章だった。
彼女が練達の書き手であり、その冴えが職業的文筆家をして、畏怖せしめるものである事は、その読者には十分認識されている事だろう。たとえば、沢木耕太郎は、その筆を「極めて男性的」と評し、「それは、高峰秀子が自分自身で書いているため、『女性らしく』などということを顧慮しなくてすんだ結果なのだ(中略)ここには、『文章のうまい女優』がいるのではなく、単にひとりの『文章家』がいるだけなのだと認めざるを得なくなったのだ。(中略)言いたいことを言いたいように書く。容易そうに見えてこれほど難しいことはないのに、文筆家としての高峰秀子はいとも簡単にその困難を突破していってしまう」(『わたしの渡世日記』解説)と記している。
文筆をなりわいとし、言葉と戦い、事実とは何かを追究してきた練達の士にして、率直に兜を脱がせるだけの力がある。そういう高峰は立派であるけれど、認めた沢木さんも立派なものだ。
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高峰秀子を、何度か見かけた事がある。
丸の内のオフィスビルで。
それは現在、一階にコム・デ・ギャルソンや、ジョージ・ジェンセン、ケンウッドなどが入っている建物なのだが、その一隅で高峰秀子は『ピッコロモンド』という、骨董屋というかアンティーク・ショップをやっていた。
二坪くらいだったろうか。趣味のいい、しかし独特の審美眼により選ばれた小物が、いくつか並べてある。
私は大学院の学生で、ドイツ系の特許事務所に勤めていたガールフレンドと落ちあうため、毎日のように、そのオフィスビル辺りをウロウロしていたのだった。
その店は、閉まっている事が多かった。
それでも、ときどきは人がいて、商いをしている風情があった。
何度か、通りかかるうちにそこにいる人が、高峰秀子だという事に気づいたのだった。
その時、興奮した、というと嘘になるだろう。
まだ、高峰の著作は一つも読んでいなかったし、映画は見ていたものの、それほど強く意識をしていたわけではなかったから。
その店を、青山『からくさ』の主人、中島誠之助さんが手伝っていた事を識ったのは、かなり後の事だった。
「週刊現代」2012年6月16日号より