セリフのうまさが抜群だった---
今なお「アウラ」を発する名女優
女優の近代Vol.6

vol.5はこちらをご覧ください。

 田村秋子、という名前に反応する人は、今日、どれほどいるだろう・・・。

 というのも、今日、田村秋子を語るならば、数冊の本---そのうちの三冊『一人の女優の歩んだ道』、『友田恭助のこと』、『築地座』は、田村自身の著作といってもいい体裁を備えている---と、舞台写真や映画のスティールぐらいしか手がかりはない。

田村秋子 秋子(1905~83)は、小説家・里見弴の書いた『宮本洋子』のモデルともなった

 にもかかわらず、田村秋子は、ある種のアウラの如きものを、今日に至るまでも発散しつづけている。

 たとえば劇作家の内村直也---ダークダックスの『雪の降る町を』の作詞者、としての方が今日では通りがいいだろうか---は、ある演劇界の古老が、日本の三大名女優として、水谷八重子、山田五十鈴、杉村春子を挙げた事に対して「私は名女優の第一人者は絶対に田村秋子を措いて他にはないと信じている者である」(『女優田村秋子』)と記している。

 批評家ならばともかく、作劇の現場に携わってきたヴェテランとしては、いささか大人げがない。

 内村よりは客観的であるものの、劇評家の戸板康二も手放しに褒めている。「田村秋子のセリフのうまさは抜群である。山本安英の丹精してつくりあげたセリフに対して、ごく生地のまましゃべって、それがみごとな抑揚で、心理の裏づけを完全に示す。ある劇作家が、この女優のセリフを聞いて『ぼくはこんなうまい芝居を書いたのかな』と思ったという話が、伝えられている」(『物語近代日本女優史』)。

 このように語られると、さぞ上手かったんだろうな、とは思うものの、その声音、演技の有様は捉えがたい。

 秋子の父、田村西男は新聞記者で、素人芝居や文士劇に出ることを無上の喜びとしていた。秋子は、ごく幼い頃から、父の舞台に駆り出された。

 小山内薫が、築地小劇場を旗揚げすると聞いて、西男は秋子を連れていき、研究生にしてもらった。西男は、小山内に「訛りがなくても新しい芝居が出来るでしょうか」と訊ねたという。当時、新劇は地方出身者のやるものとされていたので、東京育ちの人間は出来ない、と不安になったのだ。

夫の戦死は「名誉」などではない

 築地小劇場で秋子は、青山杉作演出の下、シュニッツラー『恋愛三昧』のミティ、ストリンドベルグ『ペリカン』のエリーゼで好評を博し、小山内薫演出では、イプセン『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』のグンヒルド、モスクワ芸術座のレパートリーからチェーホフ『桜の園』のシャルロッタ、ゴーリキー『夜の宿』のナスチャを見事に演じた。

 そして、築地小劇場で友田恭助と出会ったのである。

 友田は、秋子より六歳年長で、大正八年、早稲田在学中、畑中蓼坡の新劇協会で初舞台を踏み、水谷八重子とわかもの座を結成したが、小山内の誘いに応じて、築地小劇場に参加したのである。

 二人がはじめて共演したのは、フェルスター『アルト・ハイデルベルク』であった。

 その翌年、二人は結婚した。

 近代演劇史における、もっとも祝福され、嘱望されたカップルだと云う事ができるだろう。

 友田は山の手、田村は下町と出身の違いはあるけれど、裕福な芝居好きの家に生まれた二人は、実家のみならず、岩田豊雄(獅子文六)、久保田万太郎、岸田國士の薫陶を得て、築地小劇場から劇団新東京、そして築地座と、昭和初年の小劇場の舞台を輝かせていた。その上演史は、まさしく近代日本演劇の青春ともいうべき光芒を放っている。

 けれども、その青春はごく短いものだった。築地座が解散した後、文学座が創設されたが、一座を統べるはずの友田は、日中戦争の拡大により工兵隊へ召集され、上海で戦死してしまったのである。

「あたしはうちに来た新聞社の人に『友田は役者なんですから、舞台で死ぬなら名誉だと思うし、本望だと思うが、全然商売違いのところで、あんな年取った者があんな殺され方をして、何が名誉なんでしょう(中略)主人も名誉の戦死をしてとても本懐でございましょう、と健気に言った、と新聞に絶対に書かないで下さい。あたしは可哀そうで可哀そうで仕方がないと言ったと書いて下さい』そう言ったらびっくりしていました」(『一人の女優の歩んだ道』)

 新聞記者のなかには、「天皇の御楯となりて我は喜んで死地に赴く。友田伍長」と書いた写真を秋子に示した者がいた。「これは夫の字ではない、だいたい実名は友田じゃなくて伴田です」と断定したため、秋子はたいそう不興を買ったという。夫を「軍神」などというものに、秋子はしたくなかったのだ。

 友田の死後、文学座から再三求められたにもかかわらず、舞台に立たなかった。長野に疎開して戦時中をしのぎ、昭和二十四年、自作の戯曲『姫岩』でカムバックをはたした。
真船豊『稲妻』では、文学座の大黒柱となった杉村春子と共演した。昭和二十九年、岸田國士の追悼公演となった『牛山ホテル』が、最後の舞台になった。

 その晩年を田村秋子は、君津の高級老人ホーム『芙蓉ミオ・ファミリア』で過ごした。
この時期の田村の消息は、『綴方教室』で一世を風靡した豊田正子が詳しい。

 正子はプロレタリア文学者として識られた男から手ひどい仕打ちを受けた折、秋子に助けられ、爾後秋子を慕うようになった。

 秋子は、いつもふんだんに「いい紙」を用意していた、と正子は云う。

「あたし、紙だけは沢山ないと、気がおちつかないのです。悪い紙はいや。これにはわけがあるんですよ。あたしが舞台を退いた当時、いろいろな集まりの席で、よく里見(弴)先生とご一緒しました。するとね、かえりぎわになると、里見先生はあたしの手を握って、舞台に戻ってくれってお泣きになるの。その度にあたし、つらくてこちらも泣きたくなるんですけど、涙をふく時先生は、質の悪い紙でお拭きになるから、その紙がちぎれましてね、顔じゅう紙屑がへばりついて、目もあてられないことになるんです」(『花の別れ 田村秋子とわたし』)

 だから自分は、質のいい紙を常備しているのだ、というのが秋子の云い分だった。

 昭和五十八年二月三日、秋子は死んだ。

「週刊現代」2012年6月2日号より

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