あらゆる賞を総なめにした---
「舞台以外には何にもない」女優
女優の近代Vol.5

vol.4はこちらをご覧ください。

 川口松太郎が出版社の依頼により、水谷八重子の伝記を書く事になった。

 川口が八重子その人に質したところ、「お止しなさい。私みたいにつまらない女はないから」と、言下に断ったそうな。

 その、八重子の台詞を松太郎は「自分をよく知っている言葉だ。舞台人としては不世出の名女優だが、女としては欠点だらけの性格だ」と記している(『八重子抄』)。

 「つまらない女」という云い方には、多少の、いや、かなりの含蓄がある。

 昭和二十八年のNHK放送文化賞を皮切りに、芸術院賞、菊池寛賞、紫綬褒章、勲三等宝冠章、朝日賞を受け、芸術院会員、文化功労者、従四位となり、舞台人として、表現者として与ることが出来る、すべての賞を受けている。

 日本近代のあらゆる女優のなかで、もっとも祝福された存在だと云っていいだろう。

 ところが、この、不世出の女優は、実に実に「つまらない」人なのだ。

 昭和四十一年に芸術院会員に推挙された際も、きょとんとしているだけだったという。会員になった以上、芸術院に顔を出さなければならないのに、それをしない。

 仕方がないから、舞台が休みの月に、川口松太郎が、無理矢理に連れて行って、当時院長だった高橋誠一郎に挨拶をさせた。その後、八重子は二度と、芸術院の門をくぐらなかったという。

 こうした振る舞いが、たとえば権威に反抗する、国家の褒章を拒否する、というような精神により発したというのなら、それはそれで理解できるのだけれど、貰う事は貰っているのだ。にもかかわらず、まったく有り難がっている様子がない。むしろ、断るのも面倒だから、といったような雰囲気すら窺える。始末が悪いとしか云い様がない。

「つまらない女」が唯一行った「面白いこと」

 八重子十種---水谷八重子にとって格別の、十のレパートリー---の内の二つ、『風流深川唄』と『皇女和の宮』を書いた川口松太郎は「舞台以外には何にもない女だ」と云っている。世間の出来事に何の関心もなく、新聞も読まない、自身の身の上にも家族についても口をださない---娘の良重=二代目水谷八重子の身の上については、別だったが---。

水谷八重子 八重子(初代・1905~'79)は'73年、十種の当たり役を「八重子十種」として演じた

 明治三十八年八月一日、牛込神楽坂で水谷八重子は生まれた。日露戦争を締めくくるポーツマス講和会議に先立つこと九日である。

 父、松野豊蔵は時計商だったが、商売は上手くいかず、八重子が六歳の時に病死した。
父の死が、八重子にとっての大きな転機になった。一家は、姉・勢舞---神楽坂の名妓として知られていた---の嫁ぎ先である、水谷竹紫の元に寄食することになった。

 水谷は長崎の人。早稲田を出てやまと新聞などでおもに文化面を担当していたという。大正二年、水谷は『芸術座』に経営部長として参加した。そして八重子は、有楽座での旗揚げ公演でのメーテルリンクの『内部』で、初舞台を踏む事になったのである。

 「見えないから、どいてよ」という台詞を与えられたが、千秋楽まで云わなかったという。

 八重子は、松井須磨子と沢田正二郎の二人から、たいそう可愛いがられたという。二人は奪いあうようにして、八重子の顔をこしらえてくれた。二人の、大柄な才能を備えながら夭逝を余儀なくされた名優に引っ張りだこにされた事は、幼い八重子にとって、どんな辻占だったのだろうか。

 大正五年九月、帝劇での『アンナ・カレーニナ』のセルジー役が、八重子につき、島村抱月は、この役を八重子の初舞台として披露した。

 急遽、八重子のために一幕が書き足され、須磨子演じるアンナとのやりとりを演じる事になった。島村と対立していた小山内薫も、八重子のために推薦文を寄せたという。それだけ、嘱望されていたのであろう。

 大正十年、八重子は新派の井上正夫の孫娘役として国際活映の『寒椿』に出演している。

 『寒椿』は、アメリカで演劇を学んだ畑中蓼坡が監督をつとめ、当時としては巨額の一千万円という予算をかけた大作だった。映画は大当たりをとり、六十本もプリントされた。

 井上正夫は、まごつかず、素直に演じる八重子に感心し、その俳優としての才能を認めた。

 けれども、学校から故障が出た。八重子はミッション系の雙葉女学校に在学していたため、教員会で映画出演が問題にされたのである。

 その後、八重子は友田恭助の『わかもの座』に参加し、チェーホフ、イプセンなどの上演に参加している。『わかもの座』のレパートリ―であった中内蝶二の『大尉の娘』は、八重子十種の一つとなった。

 アメリカに渡った時には、チャーリー・チャップリンやルドルフ・ヴァレンティノと交歓したという。

 関東大震災後、八重子は義兄竹紫とともに第二次芸術座を興し、押しも押されもせぬ存在として名声を確立、昭和三年には松竹と提携し、花柳章太郎ら新派の俳優たちの演技に接することで、演技の引き出しを増やしていった。

 「つまらない女」と、自ら称した八重子は、生涯ただ一度、「面白いこと」をした。

 昭和十二年九月、守田勘彌(十四代)と、結婚したのである。三十二歳だった。

 守田との交際は、三年余りに及んでいた。周囲は一斉に反対したが―八重子は、勘彌とは比べられないほどの集客力をもっており、結婚により人気が落ちる事を興行関係者は気にかけていたし、また勘彌の女出入りの多さは梨園に鳴り響いていた。松竹は八重子と会う機会を極力少なくするため、勘彌に関西の舞台ばかりを割り振ったとも云われている---、二人は結婚を強行した。

 結婚は、長くは続かなかった。

 法的に離婚が成立したのは、昭和二十六年五月だったが、実際には式をあげてから、三年前後で、破綻していた。

 とはいえ、この結婚は八重子にとっては一向に不都合ではなかった。箱入りで、ほとんど男を知らなかった八重子は、蕩児勘彌に接する事で言葉の真の意味で成熟する事が出来たし、何よりも、一粒種の良重を得ることが出来たのであるから。

「週刊現代」2012年5月26日号より

この続きは、プレミアム会員になるとご覧いただけます。
現代ビジネスプレミアム会員になれば、
過去の記事がすべて読み放題!
無料1ヶ月お試しキャンペーン実施中
すでに会員の方はこちら