坪内逍遥が開いた演劇研究所で、
熱心に稽古した「新劇女優」の思い
女優の近代Vol.4

vol.3はこちらをご覧ください。

 「新劇」という言葉は、朝日新聞記者の名倉聞一が造りだしたものだという(戸板康二『物語近代日本女優史』)。「新劇」は、西欧の演劇、なかでもそのリアリズムから受けた衝撃を真正面から受け止める形で、生まれた。

 明治三十九年二月十七日、坪内逍遙、島村抱月が芝紅葉館で、「文芸協会」の発会式を行い、『妹山背山』を上演している。

 三年後、逍遙は、私邸に演劇研究所を開設した。研究所は男女共学で、当時としては画期的だった。第一期研究生のうち、女性は松井須磨子、河野千歳、五十嵐芳野の三人だった。

 三人は、踊り、三味線、長唄、謡などを仕込まれた。みな熱心に稽古をしたが、須磨子の精進は、格別だったという。

松井須磨子 須磨子(1886~1919)は1914年、『復活』のカチューシャ役が当たり、人気を博した

 松井須磨子(本名小林正子)は、明治十九年十二月、信州松代在清野村に生まれた。

 上田尋常小学校卒業後、上京し、戸板裁縫女学校に通い、明治三十六年、木更津で割烹旅館を経営する鳥飼啓蔵に嫁した。

 けれども病気がちだったため、舅に疎まれ、実家に返されてしまった。

 明治四十二年、文芸協会演劇研究所に入学した。入学に際して、正子はパラフィンによる隆鼻手術を受けたという。

 英語がほとんど出来なかった正子は、教師の発音をそのままカタカナで、テキストに書き込んだという。二期生の加藤精一が、英語のリーダーを逆さまに持っている正子をたびたび注意した、と云う、ちょっと面白すぎるエピソードを残している。

 文芸協会の第一回公演は、明治四十四年五月、帝国劇場で行われた。演目は『ハムレット』で、正子はオフィリヤを演じた。

 小林正子が松井須磨子になったのは、この第一回公演の時だった。

 出身地にちなんで松代須磨子という芸名が用意されたが、「松代」は音韻がよくないということで、「松井」に代えたのだった。

「女優としての誇りより屈辱を感じています」

 明治四十四年九月、研究所の私演会で『人形の家』が上演された。私演を見た帝国劇場専務、西野恵之助は、楽屋に飛び込んできて、帝劇の本公演として上演してほしい、と島村抱月に依頼した。

 島村の弟子であった川村花菱は、その衝撃を記している。

「『人形の家』のノラは、松井須磨子でもなんでもなく、あくまで演出家島村抱月の理想のあらわれであったのだ。/それまで教えられた先生も大したものだが、あくまで自分を空しくして、ただ先生の言われるままに舞台をつとめた松井須磨子も、決して凡庸に出来るわざではないと思った。/私はそれを感心したのだ。/先生と須磨子は、二つのものでなく、まったくただ一つのものになって、イプセンの『人形の家』を演じたのだ。/こんな役者を見たことはない。こんな女優を見たことはない。こんな演出家を見たことはない。/『人形の家』の成功は、島村先生は歓ばしい事であられたかも知れないが、おそらく須磨子は、うれしいやら恐ろしいやら、まったく無我夢中であったのではあるまいか」(『芸術座盛衰記 松井須磨子』)

 実際のところ、須磨子の胸中はどうだったのだろう。まったく己をむなしくして、ただただ島村の指示をあおぎ、忠実に演技する事に終始していたのだろうか。その著書、『牡丹刷毛』で、須磨子はかく語っている。

「私は女優としての誇りよりも屈辱の方をより多く感じて居ます。迫害せられて居ます。全体『女』というものは何の場合にも人に媚を呈さなければならないものでしょうか。何時も黙って人の言うなりにばかりなって居なければならないものでしょうか? これが昔からこの日本の女の習慣となり美徳となって居ます。そのために私たち女の仕事なり芸術なりが侮辱されてる事はどれ程だか知れません。女も男と同じ人間で有ると口には立派に言う人でもいざという場合に、何か事件が起って男と女の重大な争いとなるともうだめです」(「感想」)

 大正二年五月三十一日、須磨子は文芸協会から追放された。須磨子が退会を迫られた事をうけ、島村も協会の幹事を辞任した。

 同年七月、芸術座の創立発起人会が牛込清風亭で開かれた。一方、文芸協会は同月の『ジュリアス・シーザー』を最後として、公演を止めた。

 芸術座の第一回公演は、メーテルリンク『モンナ・ヴァンナ』。第二回は、イプセンの『海の夫人』とチェーホフの『熊』。

 そして、第三回がトルストイ原作、アンリ・バタイユ脚色の『復活』であった。
『復活』は、相馬御風作詞、中山晋作作曲の「カチューシャの唄」が二万枚という、当時としては途方もないヒット曲を得たこともあずかり、大正八年一月の解散まで、四百四十回、上演された。

 『復活』の大成功により、芸術座は莫大な利益をあげた。上野大正博覧会の演芸場を自前の劇場として買収するとともに、牛込横寺町に「芸術倶楽部」を建てた。抱月と須磨子は、倶楽部で同棲した。

 大正七年十一月四日、ダヌンチオ作『緑の朝』の舞台稽古中、島村抱月は、スペイン・インフルエンザで死んだ。

「島村抱月氏逝く 流行性感冒に罹り芸術倶楽部の二階にて 病勢急変して須磨子初め座員臨終の間に合はず ―淋しかりし氏の臨終―」と東京朝日新聞は伝えている。

 須磨子は、普段どおりに、初日の舞台に立った後、「芸術倶楽部」での通夜に臨んだという。

 明けて大正八年一月五日、須磨子は、『カルメン』公演中、芸術倶楽部の小道具部屋で縊死した。三十四歳だった。

 大正八年、スペイン・インフルエンザは世界を席巻した。

 アメリカから流行がはじまり、第一次世界大戦の戦場では、敵味方の区別なく罹患し、ドイツ軍の参謀総長ルーデンドルフは、「ドイツ軍が西部戦線のマルヌの戦いで敗れたのは、新しく参戦してきたアメリカ軍のせいではなく、ドイツ陸軍の戦力を弱めたあのいまいましいインフルエンザのせいなのだ」と述べている(速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』)。

 大正八年二月三日の東京朝日新聞は、「感冒猛烈 最近二週間に府下で千三百の死亡」という見出しで患者が増大するとともに、死者が急増と報じ、時事新報は、府下の火葬場の処理能力を越えてしまい、棺の山が築かれた、と報じている(同上)。

「週刊現代」2012年5月19日号より

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