「創業100年企業の血脈」
第二回 西武鉄道 「社員にカレーを振る舞ったピストル堤」

フライデー プロフィール

 悲劇は、突然訪れた。1964(昭和39)年4月26日、康次郎が心筋梗塞で急逝してしまったのである。

 康次郎の死後、堤家一族や西武グループ幹部で構成される事実上の決定機関「火曜会」や親族間の話し合いで、すぐに対応が検討された。そして次男・清二氏が西武百貨店などを引き継ぎ、『西武流通グループ』(後の『セゾングループ』)を形成。三男・義明氏(77)が西武鉄道や不動産事業を中心とする『西武鉄道グループ』を形成したのだ。以後、両部門は分裂した状態で発展する。

 堤家が西武グループの経営権を手放すきっかけを作ったのが、この義明氏である。彼の経営にも触れておきたい。

 義明氏は早大商学部卒業後、23歳の若さで西武グループの土地開発企業『国土計画』の代表取締役に就いている。父が逝去すると社長に就任するが、その後10年間、義明は事業面で派手な動きはしていない。「私の死後10年間は新しい事業に手を出すな」という康次郎の遺言を、義明氏は守っていたのだ。

 10年の沈黙を経た義明氏は、西武鉄道を中心としてレジャー事業を拡大させ、リゾート開発やホテル建設に邁進する。元プリンスホテル役員が語る。

「義明さんは直感の鋭い人です。流行しそうなスキーやボウリング、アイスホッケーなどのレジャースポーツを積極的に経営に取り入れていました。'78年には『クラウン』から、プロ野球球団『ライオンズ』を買収。'87年に公開された映画『私をスキーに連れてって』などで話題になった『万座プリンスホテル』や『志賀高原プリンスホテル』など、当時としては珍しくメディアミックスの宣伝方法を使い成功しています。また建築は丹下健三や黒川紀章など一流の設計士に依頼し、〝本物〟にこだわりました。マーケットリサーチなどはほとんどやらず、よく周囲には『会社の中で考えるのは僕だけでいい。後は手足でいいんだ』と自信満々に話していたのを覚えています。義明さんの手腕で、最盛期には国内外に56のホテルを展開していたんです」

経営は銀行出身者に・・・・・・

 こうして西武グループ内での絶対的な力を強めていく中で、義明氏は側近以外の人間を排除していくようになる。いつのまにか火曜会を遠ざけ、早大時代に自分が作った「観光学会」の人間を重用するようになったのだ。

「その仲間というのが、山口弘毅さん(プリンスホテル元社長)や戸田博之さん(西武鉄道元社長)などです。山口さんは芝高校(東京都港区)時代の後輩を観光学会に集め、これが西武グループでも一大勢力となります。義明さんも短気なので、反対意見があると『何を言う!』と烈火のごとく怒るんです」(前出・役員)

 しかし'90年代に入ると、バブル崩壊とともに業績は悪化。'04年には西武鉄道での有価証券の虚偽記載や株のインサイダー取引が発覚し、義明氏自身が証券取引法違反で逮捕されてしまったのだ。西武グループはメインバンクの『みずほコーポレート銀行』副頭取の後藤高志氏を迎え入れ、'05年に西武鉄道の社長に就任させた。後藤氏は西武グループ再建の名のもと、ホテルなどの資産売却や人員削減など大リストラを決行し、創業家の力は日に日に弱まっている。