「創業100年企業の血脈」
第二回 西武鉄道 「社員にカレーを振る舞ったピストル堤」

フライデー プロフィール

 1913(大正2)年に早大を卒業した康次郎は、長野の軽井沢や神奈川の箱根の不動産開発に携わるようになる。康次郎の実力を高く評価していた藤田が、『箱根土地』の専務に彼を抜擢したのだ。1920(大正9)年のことである。

「康次郎の土地開発に関する理念は、次のようなものでした。『日本が発展すれば中産階級が台頭し、リゾート地の需要が大きく高まる。だから中産階級が使えるリゾート地を開発することは、国のためになるのだ』と」(清二氏)

 こうした思いから、康次郎は当時何もなかった軽井沢や箱根の道路を整備し、水道などを引いて別荘を建設する。箱根では強羅、仙石原、芦ノ湖畔などの土地を購入し〝大箱根構想〟を展開。芦ノ湖の海上交通にも手を伸ばし『箱根遊船』を設立して、当時激しく対立していた元箱根村と箱根町の渡船組合を糾合する。湖上の交通網を一新したのだ。

 さらに康次郎は、神奈川の湯河原、静岡の三島、伊豆半島にまで開発を拡大。1921(大正10)年には、沼津と三島を結ぶ唯一の交通網だった『駿豆鉄道』(現『伊豆箱根鉄道』)の経営権を同社社長の白井龍一郎から奪い、箱根土地の傘下に収める。しかしこの買収は、ただでは済まなかった。

「白井から依頼された右翼団体『大化会』会長で活動家だった岩田富美夫が、康次郎が所有する株式を売却するよう、ピストルをちらつかせて脅迫したんです。しかし岩田の脅しに、康次郎はまったくたじろがなかった。このエピソードから、康次郎は〝ピストル堤〟と呼ばれるようになったんです」(清二氏)

 会社自体の経営は順調ではなかった。箱根土地は1926(大正15)年に、資金難に陥り社債償還不能となるが、日本興業銀行の長期支援で何とか生き延びている状態だった。だが康次郎の事業意欲は旺盛で、次に狙ったのが、昭和不況で経営危機に陥っていた武蔵野鉄道である。武蔵野鉄道は西所沢―村山公園間など支線を無計画に延長していたため、1929(昭和4)年下期には20万円の赤字を計上していた。武蔵野鉄道の別名は〝幽霊電車〟。電気料金が払えず電力会社から供給を減らされていたため、電車が幽霊のようにゆっくり静かにしか走れなかったのだ。康次郎は1932(昭和7)年に、この武蔵野鉄道の経営権を取得して、再建に着手し始める。43歳の時だ。

「康次郎は、子供の頃から鉄道に対する憧れが強かったんです。滋賀にいた時にはよく『近江鉄道』を見に行ったと話していました。実務的にも、武蔵野鉄道を押さえておけば周辺の土地が上がるという打算もあったでしょう。そんな思いから康次郎は、武蔵野鉄道の経営権を取得したのではないでしょうか」(清二氏)

 康次郎による再建によって、武蔵野鉄道の業績はV字回復する。それまでずさんな経営をしていた地主グループや、主要株主である『浅野セメント』からの経営陣を一新。大口債権者と粘り強く交渉し債務免除を勝ち取り、電力の回復にも成功した。1939(昭和14)年上期の乗客数は、前年同期比33・3%増の957万7000人、運賃収入は同33・5%増の81万円を記録したのである。康次郎は業績回復で得た利益を元手に、箱根土地で培った「鉄道路線を拡大しリゾート地を開発」のポリシーを実践していく。