演劇は男のもの---
その観念を捨てた近代に初めて、「女優」が誕生する
女優の近代vol.1

 女優は近代の産物である。

 不思議な事だけれど、この事実が、わが国の文化にかなり大きな影響を与えている事は間違いないだろう。

 もちろん、古代から女性はさまざまな遊芸にかかわってきた。

 浦山政雄らが執筆した『日本演劇史---日本芸能論---』には、「天の岩屋戸の前において、天鈿女命が、真坂樹で髪飾りをし、蘿をたすきにかけるといった扮装で、覆槽という舞台を踏みとどろかし、神がかり状態になって踊り狂ったという記述をもって、日本演劇の一つの萌芽と見ざるを得ない」と、記しているように、女性による踊り、演技の実践が日本の演劇の始原として位置している。

 天鈿女命の踊りは、祈りであると同時に演技でもある。神がかりによる託宣は「巧に俳優す」と記されているように演じられるものであり、憑依と演出の二重性こそが、神事を成立させると云う事が出来るだろう。

 大陸から伝来した散楽にも女性が参加していたようだし、源平時代の白拍子や戦国期の風流踊り、女猿楽、女房狂言から、少女たちによるややこ踊りをへて、出雲阿国が登場する。

 阿国は、出雲大社の巫女であったと云われているが、確証はなく、戦国時代末期、女性の芸能者を多数輩出したとされる加賀の出身であるとか、出雲出身でも巫女ではなく、雑芸を行う歩き巫女だったのではないか、時宗の関係者だ、などの諸説があるらしい。

 とにかく、阿国の女歌舞伎は、京都で大変な評判を呼び、何度も伏見城に招かれている。その成功を追い、追従する女歌舞伎の一座が輩出した。

 阿国の姿は、絵姿として残されている。華やかな衣裳に太刀を佩き、扇を振る姿は、元祖宝塚、という風情だろうか。

女と演劇との溝を、川上音二郎が埋めた

 江戸時代に入っても、女歌舞伎の人気は続き、その発展形?として、遊女たちによる歌舞伎が興行されるに至る。

 遊女歌舞伎への観衆の支持は過熱する一方で、無軌道な散財や贔屓同士の喧嘩沙汰などが社会問題化したために、寛永六年、女歌舞伎は禁止された。

 女歌舞伎の後に興隆した若衆歌舞伎も、二十数年を経て禁止され、野郎歌舞伎にとって代わられる事になる。男性が女性を演じるという、歌舞伎の約束事は、ここに確立された。

 寛永六年から、徳川幕府が消滅するまでの約二百四十年の間、女性が演劇に参画する事が禁止されたのである。

 だが、今の時点から考えると奇妙なことだが、徳川幕府が去った後にも、女性は舞台にたつ事がなかった。それは、演劇は男がするものだ、という固定観念が、二百四十年の間に定着してしまい、誰もその前提を疑わなかったためだろうか。

 たしかに明治時代に入って、演劇もまた、改革の波に洗われた。明治五年、歌舞伎など芝居興行にかかわる関係者が東京府庁に呼ばれ、貴顕紳士や外国人らが見ても恥かしくない、内容の劇を上演するように命じられている。

 明治十一年には新富座が、洋風建築で再建され、九代目、団十郎以下の役者たちは燕尾服で挨拶をした。九代目は、時代考証を重んじる演出に挑んだが、芝居としては面白味に欠け、黙阿弥に冷笑される有り様だった。

 明治十九年、鹿鳴館時代の真っ盛りに成立した第一次伊藤内閣の下で、その女婿末松謙澄や渋沢栄一等が、演劇改良会を結成し、女形の廃止を提言したが、それでも女優は誕生しなかったのである。

 翌年には、井上馨の邸宅に仮設舞台が設置され、明治天皇が臨席する、いわゆる天覧歌舞伎が催された。団十郎、菊五郎、左団次らの盟友が勢ぞろいし、天覧の栄誉を受けたため、歌舞伎とその演者たちの社会的地位は、かつてないほど高いものになった。

 明治二十一年には、政府の保安条例によって弾圧された自由民権運動の壮士たちが、東京から追放された。角藤定憲を首領とした壮士たちは、中江兆民の勧めもあって、政府を攻撃し、民衆を啓蒙する手段として演劇を選んだ。芝居興行の体裁をとれば、官憲の弾圧を免れるし、木戸銭を取る事も出来るからである。

 もちろん芝居については素人である壮士たちが役者として演じるわけなので、見世物としては、観るに堪えないものであった。

 角藤と同じく民権運動のリーダーだった川上音二郎は、明治二十四年二月、堺の、卯の日座で旗揚げした。やはり素人芝居ではあったが、俳優や作者としての活動歴をもっていた藤沢浅二郎が一座に連なっており、また川上には得意のレパートリーとしての「オッペケペー節」があったので、従来の壮士芝居とは一線を画した、充実ぶりをみせていた。

川上音二郎 興行師・川上(1864~1911)は、「オッペケペー節」を寄席で歌い大評判となった

 川上の成功を仰いで、済美館一座を結成した伊井蓉峰は、男女合同改良演劇を標榜している。そのため、一座には千歳米坡らの女優が所属していた。

 ここにいたって漸く「女優の近代」の幕が開いたのである。

 しかし、伊井の一座においても、女優は華々しい存在ではなかった。

 主だった女性の役は、歌舞伎と同様に女性ではなく、男性が演じる建前になっていたからである。

 それほど、女性と演劇を隔てる淵は深く、遠いものだったのだ。

 本格的に女優を演劇の中心に据えたのは、やはり、川上音二郎であった。

 明治三十八年、川上音二郎は俳優から足を洗い、興行に専念する事を宣言し、芝に「帝国女優養成所」を開いた。名前は大仰だが、実態は床屋の二階、十七畳ほどの稽古場だった。それでも渋沢栄一ら、政財界のお歴々が集まって開所を祝福したという。

 第一期生十五人の筆頭に数えられる森律子の運命は過酷だった。弁護士にして衆議院議員だった父の肇は、律子の選択を尊重したが、母校である跡見高女の同窓会から除名された上に、第一高等学校に通っていた弟は、姉が女優となった事を苦として自殺している。

 運命の惨めさにも拘わらず、律子は女優の道を歩み、益田太郎冠者の作品を得たこともあり、女優として大成している。
 

「週刊現代」2012年4月21日号より

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