同年の川端康成と認めあう---
「文壇」の絆が、かつてはあった
川口松太郎Vol.7

vol.6はこちらをご覧ください。

 昭和六十年六月九日、川口松太郎は死んだ。

 諸説あるらしいが、絶筆は新潮日本文学アルバム『小林秀雄』に寄せた「ゴルフと祝めし」という事になっている。

 現在の文学観から見れば、昭和の大批評家小林秀雄を紹介する書物に、大衆小説家たる川口松太郎が文章を寄せるというのは、大きくバランスを失しているように思われるかもしれない。

 けれども、当時としては、つまり末期に近いとはいえ「昭和」という時代においては、けして不自然な事ではなかったのだ。

 昭和四十二年に講談社から川口松太郎全集(全十六巻)---古書価は揃いで二十万前後と高価---が出た時には、川端康成が推薦文を書いている。「私は川口氏と同年齢の生き残り作家といふ縁をしばしば語り合ふ友人で、川口氏の多芸多才、またその華麗な存在を歎驚するばかりではなく、川口氏の作品の一面の、世間や人間にたいする親身になつかしく惹かれている」と。ちなみに川端は、この文章を書いた翌年にノーベル文学賞を受賞している。

 川口と川端が同年であり、その周囲に今日出海がおり、里見弴がおり、永井龍男が、久米正雄がいる、という塩梅で文士がつるんでいる。誰が幹事というのでもなく、漠然とした序列、というほどのものもない。貫目の重い軽いはあるだろうが、互いに認めあった同志として、つきあっている。

 そういった有り様が、当然のものとしてあって、川口は死んだ小林秀雄のために筆を執る事になったのだろう。

 「晩年の小林秀雄はいい顔だった。素直で透き通っていて若い頃の荒っぽさがまるでない。会うのは一年に三度ぐらい、主として程ヶ谷のゴルフ場だった。(中略)/『君は作品の批評はしないね』/と聞いた。すると彼は即座に、/『作家は職業だからな、あれで生活してるんだ、悪口書けば営業妨害になる』/営業妨害といった。/『営業妨害者が相当にいるね』/『いやあれはあれで役に立ってるんだ』/とちゃんと知っている。自分はやらないが必要なのだと知っている。偏頗にはならない」

還暦でも大人げない「文学青年」でよかった

 私にとっての文筆渡世の師匠であった江藤淳から、小林秀雄の葬礼の様子を聞いた事がある。鎌倉警察署は、大勢の弔問客が来ると予想して、交通規制を敷いたが、集まったのはごく少数の知己ばかりだったという。鎌倉を中心とした文士たちの交際は、ごくこぢんまりとした、しかし緊密な絆によって構成されていたのだ。

 かつて文壇という場所があった。

 何百万部などという途方もない売上をあげる事はなかったけれど、大衆作家だ、純文学だ、というような敷居に拘泥することなく、その人物を認めれば、年齢も経歴も関係なく、隔意のないつきあいをする、それが当たり前という時代があったのである。

 ある編集者から聞いた、里見弴の家での新年会の話。

 酔った小林秀雄が永井龍男の小説を延々批判し、からみ続けた。可哀そうにしまいには永井はおしっこが出なくなってしまったそうな。

 二人とも還暦を過ぎての話である。

 大人げないといえばそれまでだが、還暦過ぎて、そこまで大人げのない、「文学青年」であり続け、小説や評論を第一義のものとして掲げて生きているのだ。

 現在は、自らの身過ぎを含めての事だけれど、文壇なるものは消えたに等しい。世間の話題を呼ぶ賞が多少の関心を集めるだけで、物書き同士の深いつきあいというものは、皆無とはいわないが---私にも、この人は、と見込んで、あるいは見込まれて、つきあっている作家は何人かいる---、それでもやはり繋がりの薄さは、往時とは比ぶべくもない。

 文壇華やかなりし時代を象徴するのが、文士劇であろう。

 昭和九年、『文藝春秋』の愛読者大会にはじまったもので、菊池寛の提唱により芝居好きの作家が俳優として招集された。

 出しものは、菊池寛作の『父帰る』。

 丸の内の東宝劇場を借りる事になった。

 久米正雄が父を演じ、長男の賢一郎が川口、弟の新二郎が今日出海、妹のおたねが林芙美子、母役だけは本職で、俳優座の岸輝子に来てもらった。

 久米は興奮し、張り切った。

 「文士の道楽と思われちゃいけないよ、真剣に本気でやるんだ」「演劇運動をやる気なんだから」「うまいまずいは問うところでない。戯曲の内容を理解する点では僕たちほどの俳優はいない」などと檄を飛ばしたという(「文士劇あれやこれや」『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬこと』)。

 あげくの果てには林芙美子をつかまえて、「お芙美さん、もっと大きな声出して。編集記者を叱りつけるような」と注文をつける始末。

 松太郎は、演出家・脚本家として芝居にかかわってきたけれど、実際に役者として演じた事はない。舞台の寸法はわきまえてはいるものの、実際に動くとなると、話は違った。

 とりあえず稽古は十分にやり、初日が開いた。

晩年の川口松太郎 '84年に吉川英治文学賞の祝賀会で挨拶する川口。翌年6月、85年の生涯を閉じた

 関係者の招待日で、見知った顔ぶれが席を埋めている。

 舞台は、川口の賢一郎と、今の新二郎の会話からはじまる。

 今の顔を見て、松太郎は驚いた。

 鼻の頭に、白胡麻を撒いたように、ブツブツがついている。

 今は、知らずに熱演しているが、松太郎はおかしくってしょうがない。噴き出さないよう、我慢するのに苦労した。

 芙美子が気づいて笑いだす。松太郎は、小声で鼻をふくよう、今に云ったそうな。

 父親役の久米が入魂の演技を見せ、舞台は終わった。

 幕がとじた後、東宝の社長である小林一三が楽屋に来て、「泣かされたよ、うまいもんだ」と云った。

 文士劇は、戦争をはさみ、昭和五十二年まで続けられた。

 川口の見たかぎりでは、石原慎太郎の助六、有吉佐和子の揚巻、三島由紀夫の意休が出色だったという。

 松太郎は、文士劇よりも長生きしてしまった。

「週刊現代」2012年4月14日号より

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