東大話法の使い手は、教授や官僚や政治家だけではありません。財界にも言論界にもいます。例えば、元大王製紙会長の井川意高氏(東大法卒)もそうです。'07年の『財界』新年号のインタビューに、彼の東大話法がよく表れています。
その冒頭で、彼は「(製紙会社は)大きければいいという業界ではない」と言い、北越紀州製紙との提携も、技術上の相互援助だと説明します。規模を目指すのが目的ではないと言いたいわけですが、話の後半にブランドの話になると、「今後トップ3かトップ2しか生き残れない」と語り出す。最初に言ったことと矛盾しているのに、本人はそれに気付かず、滔々と持論を展開していくのです。
なぜそうなるかというと、話題ごとに自分にとって都合のいい結論を用意して、それにうまく当てはまる話を並べているだけだからです。話全体としては、なんとなく繋がっているようだけれど、実は前後で矛盾して一貫性がない。その一貫性のなさをカバーするために、随所に全く脈絡のない別の話を差し込んでくる。
信念も感情もない人たち
何度も言いますが、こうした東大話法の話者には、自分の信念とか、感覚とかがありません。というか、それを感じないようにしているので、いかなることでも理解できるし、いかなることでも発言できるのです。
だから彼らとの対話は、互いに心を通じ合わせ、新しいアイデアとか価値を生み出すものにはならない。彼らの話法は、相手を言いくるめ、自分に従わせるためのもの、要するに言葉を使った暴力だから、そもそも対話にならないのです。
「人体にただちに影響があるレベルではない」、「原子炉の健全性は保たれている」---原発事故後、名だたる学者や政府の役人などの口から、こんな信じられない発言が次々と飛び出しました。私はあれを見て、すごく不気味に感じた。たぶん多くの日本人が同じ感じを抱いたと思います。
彼らは態度もおかしかった。たとえば経産省の西山英彦審議官(当時=東大法卒)は、なぜか会見でニヤニヤしていました。あの役割は、常人では耐えられないほどの重圧です。まして彼は原子力安全・保安院に在籍経験を持つ責任者の一人。半笑いを浮かべながら話すなど、普通は絶対にできません。それができたのは、彼が自分を傍観者の立場に置いていたからです。
当時の枝野官房長官の会見も、気持ちの悪いものでした。口では「政府は国民の生活をまず第一に考えている」と言うけれど、感情が伝わってこない。何を言っても、ほとんど表情が変わらない。
また、東京大学医学部附属病院の中川恵一准教授は、事故後にインターネット記事でこう書いています。
「100mを超えると直線的にがん死亡リスクは上昇しますが、100mSv以下で、がんが増えるかどうかは過去のデータからはなんとも言えません。それでも、安全のため、100mSv以下でも、直線的にがんが増えると仮定しているのが今の考え方です。
仮に、現在の福島市のように、毎時1μの場所にずっといたとしても、身体に影響が出始める100mSvに達するには11年以上の月日が必要です」