vol.5はこちらをご覧ください。
川口松太郎は、二度結婚している。
最初の妻、照は、大阪新町の老舗茶屋「大万」の一人娘。
踊りが好きで遊び半分で舞妓に出て、贅を尽くした誂えで色町を沸かせた、という評判娘であった。
照に惚れこんだ松太郎は、「大万」に居候の様にして入り込み、ついに射止めた。才能と意気地に恵まれてはいたものの、着て食べるのがやっとという暮し振りの青年が、である。
照の親御さんは良い顔をしなかったが、彼女が自分を選んでくれた事は嬉しかったに違いない。松太郎は、照と結婚した時、「世の中の男はみんな馬鹿に見える」と云ったそうな(『空よりの声 私の川口松太郎』若城希伊子)。
一旦、照を置いて東京に帰り、所帯の支度をして迎えにきた。川口の周囲では照は、「白金」と呼ばれるようになった。
二番目の妻は、三益愛子である。
浅草の伝説的喜劇一座『ピエル・ブリヤント』でエノケンの相手役として売りだした三益愛子は、昭和を代表するコメディエンヌだ。
戦後は菊田一夫の『がめつい奴』の「お鹿ばあさん」役で大当たりをとり、ロングランの記録を樹立している。一方、映画『山猫令嬢』などで悲運に泣く母を主人公とするメロドラマを達者に演じる事もできる、まさしくプロのなかのプロともいうべき女優であった。
愛子と照は対照的だ。
照は、松太郎にとって掌中の珠であり、勝ち取った、今時の言葉で云えばトロフィー・ワイフのような存在であった。
照は夫に可愛がられ、尊重されるのを当然だと考えている。それは求婚した者が負うべき、当然の義務だと。
一方、愛子は、汗と涙をまき散らしながら舞台に映画に心魂を注ぎ稼いできた女優である。その点で愛子は、松太郎とは似たもの同士であった。愛子は夫に依存する女性ではなかったし、なかったからこそ、松太郎にとっては頼もしい相棒であり、伴侶であり、分かちあえるはずのないものも分かちあえる存在であった。
三益は松太郎との間に四人の子供をもうけた。
昭和十一年、長男の川口浩が産まれた時には、まだ離婚が成立していなかった。ようやく入籍したのは昭和二十六年のことである。
愛子は、浩が法的には私生児であるハンディを鑑み、息子の慶応幼稚舎の試験にさいして女優を引退した。戦時下のため、定員割れで無事入学出来たのだけれども。
何より厄介なのは、松太郎は照、愛子以外にも女性がいたことだった。
最盛期、四つの家をもっていた、と松太郎は高峰秀子に「自白」している。
「四軒? お書きになったものを拝見すると、大体三軒だったよ。ママが御存命のころは。三軒と三人の恋人。/『四軒なんだよォ。つまり、ママの家も入れて四軒だ。でも、四軒いっぺんに出来たわけではないからね。初めは一軒だったのが二軒になり、三軒になり、・・・』/なに言ってるのさ。/でも先生、四軒まわって歩くの忙しかったでしょう? 一応は座敷にも上がるし、お風呂も入らなきゃならないし。/『忙しいったらありゃしないよ。もう。一箇所に二日だろう、二日目になりゃ行ってくるよって。これは当分来ないな、と思うからどこの家の奴もみんないい顔しないよ』/あたりまえですよ」(『人情話 松太郎』高峰秀子)
「ママ」は、三益愛子のこと。松太郎の親友だった画家の岩田専太郎の「家」は、もっと多かったらしいが・・・いやはや。
昭和四十九年、松太郎は女子医大に入院した。
食道がんが発見され、コバルト照射を受けたのである。
輸血したため肝炎をおこし、黄疸が出たけれど、何とか退院にこぎつけた。
退院後、川口夫妻がラスベガスに行って帰ってみると、息子二人が麻薬吸引の廉で逮捕されていた。
さらに娘まで、かつて吸引していた事が露見し---結局、不起訴処分になった---、夫妻は一時引退を考えたという。
松太郎は、息子二人に勘当を申し渡したそうだが、それも「最低の生活費は支給する」というものだった。そんな勘当はありはしない。
苦労に苦労を重ねて、辛酸で我が身を磨いた末に世間の味を知り尽くしたはずの夫婦が、子供を甘やかしたために、さまざまなトラブルに見舞われる・・・。
嗤う人もいるだろうが---大多数はそうであろう---、けれども私は嗤う気持ちにはならない。自らが苦労してきたがために厳しくするのではなく、甘くなってしまう---それはもちろん当の子供をスポイルする事になるのだが---それもまた人情だ、と云ってしまいたい気がしないでもない。「人情馬鹿」を標榜した松太郎にとっては、ふさわしい態度だったかもしれない。
昭和五十六年の正月、愛子は松太郎と共にラスベガスで過ごし、帰国した直後に発熱した。三十九度だった。前々年、NHKの連続テレビドラマ『鮎のうた』に出演していた頃から、愛子は不調を訴えていた。
『がめつい奴』の再演が決まっていたので、愛子は何としても出たかったが、診断の結果は膵臓がん。当時の全治率は六パーセントだった。女子医大に入院した。
手術は五時間かかった。四月に退院し、六月にハワイに行った。石原裕次郎の重態が伝えられていた頃である。夫妻は裕次郎夫妻とたびたびハワイで遊んでいた。
十一月になって容態は急変した。
一月、再び入院。十八日に愛子は逝った。
「もともとこれは自費出版して愛子が生前お世話になった方々へ差上げたいと思って書き出したのですが、それを講談社さんが出版して下さるというので実は恐縮しているのです。初めは私記の多いものだったのを出版となるとわたくし事ばかりではいけないので改めて書き出して幾分は小説的な文体にしましたが、もとより小説ではありません」と、『愛子いとしや』の「あとがき」に松太郎は書いた。
さらに昭和六十年に出た「文庫版あとがき」では「愛子の死んだ時、一ばん初めに考えたのは自殺だった」と記している。けれど松太郎は死ななかった。
「週刊現代」2012年4月7日号より