弟子・川口の成功に嫉妬する、久保田万太郎の「非人情」
川口松太郎Vol.4

vol.3はこちらをご覧ください。

 川口松太郎は生涯に五人、文壇での恩人を持っている、と云う。

 久保田万太郎、小山内薫、谷崎潤一郎、菊池寛、里見弴だそうな(「哀れな冷蔵庫」『忘れ得ぬ人 忘れ得ぬこと』)。

 谷崎、菊池を抑えて久保田が筆頭になっているのは、久保田は松太郎にとって最初の師だったからだ。

 大正四年四月、『中央公論』に久保田の『今戸橋』が載った。登場人物は寄席芸人ばかり、松乳山に三囲神社、都鳥せんべい、今戸焼、うなぎの喜多川、佃煮の浜金といった名所、名物がふんだんに盛られた小品。自分が生まれ育った場所を小気味よい文体で描いてくれた事が嬉しくって、松太郎はすっかりまだ見ぬ作家に参ってしまった。

 調べてみれば、駒形に住んでいるらしい。勇気をふりしぼって家を訪ねたが不在だった。

 六代目菊五郎の弟、彦三郎の家が橋場にあった。その家で『新演芸』の読者招待会が催される。小山内薫の講話もあるという。五十銭の会費を払って松太郎は出席した。その座に久保田がいた。久保田をはじめとして美文を綴る作家たちの---長田幹彦、岡村柿紅---風貌がまったく美しくないのに愕然としながら、川口は一度、久保田家を訪れた事を伝えた。

「又遊びにいらっしゃい」

 と万太郎は云ってくれた。

 訪ねてみれば、万太郎はまだ部屋住みの身分。

 万太郎の父勘五郎は、松太郎が息子の弟子だと聞いて「下には下があるもんだな」と云ったそうな。

 万太郎二十六、松太郎十六の頃。

 大正十年、帝国劇場は賞金百円で戯曲を募集した。松太郎は佳作で当選した。

 その晩、万太郎は新劇座に松太郎を連れてゆき、「これは僕の弟子で、帝劇の脚本に当選したんだ」と、恥かしいほどの大声で云った。かなり酔っている。松太郎が稽古場から連れ出すと、絡みはじめた。「僕はね、世に栄えている人より、落ちぶれながらささやかな仕合せを楽しんでいるような人間が好きなんだよ」(『久保田万太郎と私』)。

非人情だからこそ、人情話を書ける

 松太郎が文壇、梨園、映画界で存在感を増せば増すほど、万太郎は松太郎に冷たく当たった。当たっていながら、松太郎から演出の仕事を回して貰っている---万太郎は極度の遅筆のため、原稿料では生活を維持できなかった---、有難いが、有難いぶんだけ憎らしい。

 久保田の全集が企画されると、一番弟子である松太郎を編集から外した。還暦の祝いに文士劇を催した時、松太郎には役がつかなかった。

 それでも松太郎は師匠を立て、崇拝しつづけた。昭和三十一年、万太郎は『三の酉』を『中央公論』に発表した。松太郎は感激した。

「『近年の最大傑作です、頭が下りました』/『あの材料、君が書いたらもっと面白くなっただろう』/『その代りいやらしくなります。たくまずに淡々と書いて、とても私には出来ない、久保万的マンネリズムという批評もありましたが、そうは思いません、演出の仕事で走りまわっていながらよく書けましたね』」

久保田万太郎生誕の地 雷門一丁目(東京・台東区)の下町に、俳人にして小説家の久保田は生まれた

 久保田万太郎は、三回所帯をもっている。大正八年に浅草の芸妓を素人に直した大場京子。京子は、男児---耕一---をなしたが、家庭をまったく顧みない夫に絶望、自殺した。二番目の妻三田君子も花柳界の人間だったけれど湯島天神下に構えた家から久保田は出奔してしまった。そして最後のつれあいが芸者の三隅一子。

 川口は公平に見て、赤坂で磨かれた三隅が一番、久保田に嵌っていたというが、どうだろう。

 久保田の心の底には、痺れるような無情さが揺蕩っている。その無情があっての人情噺なのではないか。

 万太郎は、父親の葬式にも、母親の葬式にも出席しなかった。一人息子も、ほとんど構っていない。けれど、そんな人間だからこそ、人に涙をしぼらせるような作品を書けたのではないだろうか。その非人情が松太郎にはなかった。

 水上瀧太郎は、久保田にとっては慶応の先輩であり、頭のあがらない存在であった。『三田文学』の名物コラム『貝殻追放』で、久保田万太郎を論じている。

「第一久保田君には頼母しいところがなくなつた。怖ろしく出たらめで、あてにならない。安受合で、ちやらつぽこだ。世の中を知り尽したやうなおちつきがなくなつて、何もわけのわからない半可通らしく見えて来た。人の後にひかへめ勝だつたのが、出ないでもいい処にまで無闇に乗出して馳廻つて居る。焦躁、性急、浮調子になり切つてしまつた。/その以前同人が寄集ると、/『久保田つて人はおとなしい人だね。あれは叔父さん見たいな気がするよ。』/『ほんとにああいふのが居てくれると頼母しい。』/などと云ひあつた事もあつたが、その自分さへ近頃の久保田君の出たらめには幾度となく迷はされて、何が何だかわからなくなつて、癇癪を起した事も数へ切れなくなつた。(中略)/『文壇電話』といふ綽名をつけた人がある。彼方此方と喋り歩いて、忽ち噂を広げるといふ意味なのださうだ。時には本屋の番頭らしい事がある。時には役者の男衆らしい事もある。それ程変てこに顔が広くなつてしまつた」(「『末枯』の作者」)

 瀧太郎は明治生命の重役を務めながら、小説、コラムを書きつづけた。

 瀧太郎は、迷信家の鏡花がその指図に従ったという人物である。親馬鹿話を書いても嫌味のない書き手だ。それが匙を投げている。

 万太郎に対する批判は、かなり辛辣なものだが、このコラムは、まだ京子夫人が健在だった頃に書かれたものである。

 瀧太郎は実に立派な人物だったし、松太郎はあまたの仕事をなした。しかし今日、松太郎を知る者も、瀧太郎を知る者も、眇たるものだ。

 けれども久保田万太郎は生き残っている。

 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

 この句は、中村草田男の『降る雪や』と並び、昭和を代表する句として高く評価されている。

 その句作により、万太郎は命をながらえている。短詩は強い、と改めて思う。

「週刊現代」2012年3月24日号より

この続きは、プレミアム会員になるとご覧いただけます。
現代ビジネスプレミアム会員になれば、
過去の記事がすべて読み放題!
無料1ヶ月お試しキャンペーン実施中
すでに会員の方はこちら