『風流深川唄』に描き出された、
「人情馬鹿」丸出しの魅力
川口松太郎Vol.3

vol.2はこちらをご覧ください。

 第一回直木賞の受賞作となった川口松太郎の三つの小説のうち、『鶴八鶴次郎』は、新内の太夫が女の幸を祈って身を引き、『明治一代女』は、柳橋芸者が義理と意気地を押し通して自らを滅ぼす。けれど『風流深川唄』は、ささやかだけれど仕合せを得る筋立てになっている。

 門前仲町の老舗深川亭は、三代九十年にわたって暖簾を守っている。とは云っても、当代の伊三郎は朝、板前の長蔵と河岸に行くだけで、深川亭の敷居は滅多に跨がず、永代の船宿の路地に常磐津文字力と所帯を構えている。娘のおせつと料理人の長蔵が店を切り回していて、夫婦約束が出来上がっている。

 不動様の祭りの翌日、深川亭に執達吏がやってくる。一万二千円の債務を履行しなかった廉で差し押さえを受けたのだった。一族が集まり、事の顚末を追及する。

 「『申し訳はありませんが、叔父さん、人間誰しも義理があります。恩を受けた人の為めに義理で押した私の受け判です。こんな結果になったればこそ、恩も義理も仇で返ったとは云うものの、考えて見ればここの店も、七年前の不景気に、危く人手に渡るところだったのです。あの時にも伯父さんたちに集って頂いて、御相談をしましたが、これぞと云う名案もなく、どうせいけないものならば、一層商売を止めてしまって、店を人手に渡すが好いと、叔父さんたちの御意見でした』/よく聞けと、云わんばかりの伊三郎が、言葉尻に力をこめて、/『危く人手に渡ろうとするところを、助けて下すったのは太田先生です。五千円と云うお金を、無利息無期限で貸して下すった先生の御好意があったればこそ、深川亭は今日まで、人に後指をさされずにやって来ました。それは私が云わなくても、叔父さんたちがよく御存じでございましょう。そればかりじゃありません。それから以来、太田先生が御関係になっている政党の宴会はもとより、諸方の会社、取引先のお集りには残らず店を御利用下すって、毎月のお勘定が千円を下るようなことは一月だってなかったのです。(中略)』」

「私も生粋の深川女から生まれた」

 「言葉を切って伊三郎は、後に坐っているおせつと園田を振返って、/『お前たちも、それはよく知っているな』/『ええ』/躊躇なくおせつはうなずいた。/『その太田先生が、落ち目になってからの選挙費用、気の毒だがたのむとおっしゃられた一万二千円。叔父さん、私は殺されてもいやだとは云われません。たとえこの受け判で深川亭が潰れようとも、それが人間の運勢でござんしょう。どうせ一度は潰れかかった会席茶屋だ。太田先生の為めに今日まで生き長らえたと思えば、先生と心中して潰れるのも、本望じゃありませんか。私はそう思って居ります。(中略)』/(中略)『堪忍してくれよ。おせつ、俺は商売が下手だから、一切お前に任せてあっただけに、お前はさぞ悲しかろう。が、どうもこれも運だ。あきらめてくれよ』/『いいえ、お父さん』/と、おせつはいよいよ嗚咽にむせびながら、/『そんな、そんな事で泣いているんじゃありません。お父さんが、よく先生の為めに受け判をして上げて下すったと思って・・・私はそれが嬉しいんです。店は潰れても仕方がありません。お父さんが先生の為めにつくして下すった心意気の方が私はよっぽど嬉しくって・・・』/そう云いかけて、おせつが更に声を高めて泣き出すと、伊三郎の目元にもつきぬけるような涙があふれて流れ出した。/聞いたか、みんな! これが俺の娘だぞ。俺たち親娘の心意気が判ったか---。/大声にそう叫びたいのをじっと押えつけて伊三郎は心持よく泣くのだった」

 「人情馬鹿」丸出しというやり取りだが、下町の市井に生きる人々を、一つの理想像として造形して見せたところに尽きない魅力がある。

 「『虚栄ばかり張っていて、懐中の苦しい商売はやめようと、俺はさっきも云っている。第一、俺はこの通りの無愛想者だし、料理屋の主人になったって、客に愛嬌をふりまく事の出来ねえ男だ。なろう事なら気兼の要らねえ小料理屋の、たとえ腰掛けの飲み屋でも好いから、肩の凝らねえ商売をしてえと思っているんだ。小石川の旦那なんかが愚図愚図云って下さるよりは、早く此処が潰れてしまって、お前と二人水入らずの小店を叩き出してえと念じている。深川亭なんざ潰れてくれた方が俺に取っちゃアどのくれえ嬉しいか知れねえンだ』/『・・・』/『それともお前は、手鍋下げて苦労するのがいやだと云うのか』/『何を・・・お前さん!』/『こっちは覚悟はきまってるんだ。孫店の一軒ぐれえ、何時でも叩ける用意はしてあるんだ』/『・・・』/おせつはしくしく泣き出していた。/『深川亭の暖簾に惚れているんじゃアねえや。俺はお前が・・・・・・』/と、長蔵は自分で自分へうなずくように言葉を切って、/『たとえお前が裏店の貧乏人だろうと、百万長者の娘だろうと変りはねえんだ』」

深川不動堂 深川不動堂(東京・江東区)界隈では、下町らしい人情ドラマが繰り広げられていた

 『無文字社会の歴史』などの著作で識られる、日本における文化人類学のパイオニア、川田順造はまた、「生粋の深川女」を母にもった事を誇りとして生きてきた、下町の人である。

 「下町女というときの下町は、やはり---下町風にいえば、やっぱし---、御府内の神田や日本橋の連中からは『川向う』と、ややさげすみをこめて呼ばれていた、草深く汐の匂いのする辰巳の一郭、深川にとどめをさす。私も生粋の深川女から生まれたが、江戸=東京に改めて興味をもつようになり、いろいろな下町女にお話を聞いてきて、そう思う。/色よりは芸を売った、もと門前仲町の芸者、深川のいなせを代表する川並、鳶の頭、大工のおかみさん、行徳の塩を小船で運んでいた船頭のおかみさん、その行徳の『しょったれ』(塩作り)の家から嫁に来た煎り豆屋のおかみさん、下町の縁日の裏方テキヤ三代の御内儀、糸屋、刻み煙草屋、うなぎ屋の家付き娘、等々。震災のとき永代まで逃げたが、燃えてきたので、幼いきょうだいを両腕に抱えて海へ飛び込んじゃったなどという活きのいい話を聞いていると、下町の気っ風や人情を---そして経済も少なくとも六割くらいは---支えて来たのは、これらのおかみさんや娘たちだったと思わずにはいられない」(『江戸=東京の下町から』)

 さまざまな職種をならべ立て、細かい言葉遣いにこだわってしまう処に、なみなみならぬ郷土への愛着が窺われる。

「週刊現代」2012年3月17日号より

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